坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年5月29日 主日礼拝説教  

     「証しは話し方が9割」                                     

聖 書 使徒言行録18章24~28節
説教者 山岡 創牧師
24さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。 25彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。 26このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。 27それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。 28彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。


「証しは話し方が9割」
 いやいや、アポロさん、それはいかんでしょう?!‥‥と言いたくなります。というのは、彼が「激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」(28節)からです。何がいかんのかと言えば、説き伏せられたユダヤ人たちが、心から納得したとは思えないからです。
 アジア州(現在のトルコ)の港町エフェソから、エーゲ海を越えてアカイア州に渡ったアポロは、コリントのユダヤ人会堂で、「聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し」(28節)ました。彼の説教は、コリントで既に主イエス・キリストを信じていた人々を大いに助けた、といいます。メシアつまり救い主はイエスであると立証するアポロの説教が聖書に基づいて語られたため、新興のキリスト派の弟子たちは、自分たちの信仰は決して間違ってはいないと自信を深めることができたに違いありません。
 けれども、説き伏せられたユダヤ人たちは腹立たしかったと思います。聖書に基づいているからと言って、決して救い主メシアはイエスであると信じようとはしなかったでしょう。むしろ反発を感じ、いよいよ迫害の意を強くしたかも知れません。
 イエスこそ“私の”救い主です、と信じることは信仰の核心です。でも、その信仰が、他の宗教信仰と、どちらが正しいかを論争する元になってはならない。当時はともかく、現代においてはナンセンスです。信仰は理屈ではなく、自分自身の人生経験や気持において納得するものだからです。そういう意味で、現代のクリスチャンとしてキリストの救いを証しし、伝えていく上で、どう話すのが良いか考えさせられる聖書箇所です。
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 主イエス・キリストを証しし、伝えていく上で、まずいちばんに大事だと思うことは、その内容が「聖書に基づいて」(28節)、「正確に」(25、26節)に語られている、ということでしょう。こんなことを言うと、“私には無理!私は聖書のことなんてよく知らないし、とてもじゃないけどイエス様のことを正確に話すことなんてできない”と思われるかも知れません。けれども、そんなふうに考えなくてよいのです。聖書の隅から隅まで、逐一(ちくいち)正確に知っている必要なんてありません。聖書の中でもっとも重要な教えを、これが聖書の中心と思われる真髄を知っていれば十分なのです。
 それは何か?‥‥先週の説教でもお話しました。心を尽して神を愛することと、隣人を自分のように愛することです。主イエスは、旧約聖書(律法)の中でもっとも重要な掟はこれだ!聖書の真髄は、神の御心(みこころ)はこれだ!と言われました。そして、この掟に基づいて、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)という新しい掟を弟子たちに、私たちに教えられました。
 もう少し肉付けをして言えば、神さまは、ご自分の独り子イエス・キリストを通して、私たちを愛してくださる。イエス・キリストの言葉と行動、十字架と復活の出来事を通して、私たちへの愛を表わしてくださる。どんな時も、どんな場合でも、どんな“私”でも、私たち一人ひとりを認め、赦(ゆる)し、受け入れ、励まし、再起させてくださる。勇気と希望を与えてくださる。この神の愛を信じて、喜びと感謝に満たされたなら、幸せな気持ちになれたなら、その愛に応えて、隣人を自分のように愛する。互いに愛し合う。互いに愛し合うという主イエスの掟に従うことが、すなわち神を愛することになる。
 これが、聖書に基づいたキリストの救いです。聖書の真髄、神の御心です。これだけを知っていれば、これだけが自分の腑(ふ)に落ちていれば、証しし、伝えるのに十分です。聖書のいちばんのポイントは“愛”です。愛を信じ、愛を伝えることです。
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 神の愛と、人と人とが互いに愛し合う愛を信じて、証しし、伝える。ということは、伝え方そのものが愛に基づいている、愛に溢(あふ)れていることが大切です。愛の感じられない伝え方をしたら、だれが“愛”を信じるでしょうか。話す内容と話し方が愛において一致していることが重要です。
 『人は話し方が9割』(すばる舎)というベストセラーの本があります。陽なた屋という、たこ焼き店を九州で展開して成功させ、現在は執筆と講演を中心に活動している永松茂久さんという実業家が書かれた本です。永松さんは決して話術の専門家ではありません。その永松さんが、いつもお世話になっているすばる舎の編集長や仲の良い営業担当者から、話し方について書いてほしいと頼まれた時、読者に伝えようと決めたことが次の3つだったといいます。

 流暢(りゅうちょう)に話さなくていい。それより聞き方を磨(みが)こう。
  苦手な人、嫌な人と無理にコミュニケーションを取らなくていい。
  相手に愛を思って話すことが最高の話し方。(『喜ばれる人になりなさい』268頁)
 3つ目の、相手に愛を思って話すことが最高の話し方、まさにその通りだと思うのです。私たちは、自分を愛してくれる人の言葉には耳を傾けます。同じ内容のことを言われても、Aさんが話したことなら聞いて受け止められるけど、Bさんが言ったなら素直に聞けず、反発したくなるということがあるのではないでしょうか。どうしてでしょう?それは、Aさんには愛を感じるけれど、Bさんには愛を感じないからだと思います。愛に基づいた信頼関係があるかないかの違いです。
 苦手な人、嫌な人にはなかなか愛を思うことができないので、無理にコミュニケーションを取らなくていい。相手におもねらず、相手を変に気にせず、無理せず自分を大切にするということも、一つの愛なのでしょう。
 そして、流暢に話せなくていい。私たちの中には、聖書のこと、キリストのことを上手(うま)く話せないと感じている人もおられるでしょう。そう感じている人にとって、流暢に話せなくていい、というのはホッとすると思います。話すことではなく、聞くことを大切にしてごらんなさい、と言うのです。それってイエス様を証しすることになるの?と思うかも知れませんが、なるのです。人は自分の話を聞いてもらえたら、喜びを感じ、愛を感じるのです。聞くということそのものが、愛を証ししているのです。その際、大事なことは、相手の話を否定せずに聞き、相手の考えや気持を受け止めることです。そして、人は自分の話を聞いてくれる人の言葉は聞きます。キリストの愛について語ることを、うまくしゃべれなくても、きっと聞いてくれます。
 相手を愛する思いで、愛について語る。神さまに愛されている自分の喜びを証しする。
そうすることで、キリストの救いは、神の愛は、理屈で説き伏せるよりも、人から人の心へ、染み込むように伝わっていくのではないでしょうか。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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