坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年6月5日 聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝説教  

     「聖霊を求めよ」

聖 書 ルカによる福音書11章5~13節

説教者 山岡 創牧師

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼(たの)めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探(さが)しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊(せいれい)を与えてくださる。」


「聖霊を求めよ」
 聖霊を与えてください。復活した主イエスが天に昇って行く様子を見届けたペトロをはじめとする使徒たちは、婦人たちや主イエスの母マリア、また主イエスの兄弟たちと共に祈りました。一つになって、何日も祈り求めました。
 その求めに応えて、主イエスは天から聖霊を、彼らにお与えくださいました。聖霊に助けられて、彼らは主イエスの救いを宣べ伝えました。それを聞き、信じて洗礼を受けた人々が加わり、後に“教会”と呼ばれる集まりが生まれました。これがペンテコステの出来事、つまり、この日はキリストを信じる人々に聖霊が与えられ、教会が生まれた記念日なのです。
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 生きておられた時、主イエスは既に、弟子たちに、父なる神に求めることを教えておられました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9節)
 私たちは、何を求めているでしょうか?聖書の中の二つのエピソードを思い起こします。一つは、てんかんの病を持つ息子の父親が、主イエスに息子の癒(いや)しを求めた話です。祈り求める信仰が弱いと主イエスから指摘された父親は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9章24節)と叫びます。
 もう一つは、ヤコブとヨハネの願いです。二人は主イエスの弟子でしたが、主イエスがイスラエル王国を復興し、その王となる時、一人をその王座の右に、もう一人を左に座らせてください、と求めました。主イエスに次ぐ地位と権力とを求めたのです。
 私たちが普段の生活の中で求めることは、だいたいこのようなことではないでしょうか。自分が病気にかかれば、あるいは家族や親しい友人が病を患(わずら)っていれば、その癒しを祈り求めるのは至極(しごく)自然なことです。仕事の成功を求め、その延長として地位や権力を求めることもあるでしょう。物質的な、金銭的な豊かさを求めることもあるでしょうし、家庭の平安、幸せを求めることもあるでしょう。生活が自分にとってうまく、快(こころよ)く運ぶこと。それが私たちの持つ素直な、ストレートな願いです。
 けれども、求めたことが必ずその通りに実現するとは限りません。いや、むしろ求めたとおりにならないことの方が多いかも知れません。事が重大であるほど、また私たちの力が及ばないものであるほど、求めた通りのものは与えられず、私たちは現実の厳(きび)しさや人生の悲しみを味わうことになります。だとしたら、求めたのに与えられず、祈りは聞かれなかったということでしょうか。いいえ、そうではないのです。
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 その時、私たちは主イエスから求められるのです。「探しなさい」と。父なる神が、あなたに与えてくださったものは何か、探すことを求められるのです。
 主イエスは言われます。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」(11~12節)。もちろん、そんな父親はいないのです。でも、この言葉から察するに、魚を求めたのに魚が与えられない、卵を求めたのに卵が与えられない場合のあることが想像できます。求めたものが、その通りには与えられない現実が示されています。
 でも、父親は決して蛇を与えはしない。さそりを与えはしない。つまり、悪いものは与えないことも示されています。そうです、父親は子供に「良い物」(13節)を与えます。父なる神は、私たち求める者に「良い物」を与えてくださるのです。
 だから、私たちが祈り求める時、求めた通りのものは与えられなかったとしても、「良い物」が与えられるのです。その「良い物」を探しなさい、と主イエスは言われるのです。そして、探せば、その良い物が何なのか、必ず見つかると主イエスは約束してくださっています。もちろん、すぐに見つかるとは限りません。時間のかかることがあります。人生の暗いトンネルを抜けなければ、その向うの景色は見えず、嵐が止(や)み、雲が晴れなければ、その向うの太陽が見えないことがあります。けれども、あきらめずに、真夜中にパンを求めるように、探し続ければ、何が良い物なのか、きっと見つかります。
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 そして、求めて、探し続けて、最後に、たぶん私たちは門の前にたどり着きます。この門の向うに、探し続けた「良い物」の答えがある。そう信じて門を叩く。信仰の求道、修行の道程(プロセス)の最後に、“頼もう!”って感じで、父なる神さまに呼びかけ、神の家の門を開けてもらうのです。その門が開かれて、私たちに与えられる答えは、「聖霊」(13節)です。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)のです。
 聖霊のどこが、私たちにとって「良い物」なのか、不思議に思われるかも知れません。確かに一見、漠然(ばくぜん)としていて、つかみどころがありません。
 けれども、聖霊が与えられるということは、聖書の言葉によって示されている恵みが、心にストンと落ちるということです。神の愛が自分の魂(たましい)の隅々(すみずみ)にまで浸(し)み渡ることが理屈抜きに感じられるということです。神さまの愛の下に生かされている。認められている。赦(ゆる)されている。受け入れられている。導(みちび)かれていることが分かり、喜びと感謝が湧(わ)き上がって来ます。一言で言えば“人生本来の自分”になれる、ということでしょう。
 そのようにして神の愛の下に、私たちの心が開かれます。もしかしたら閉ざしていた心の門が、聖霊によって愛によって開かれます。解放されます。素直になれます。自由になれます。そしてその時、だれかを喜ばせたいと願う愛が、私たちの心の門からあふれ出てくるのではないでしょうか。その愛によって、私たちはお互いに認め合い、ほめ合い、ゆるし合うことで、人は持って生まれた本来の姿に、開かれた自分に、素直な自分に、自由な自分に、笑顔の自分になれるように思うのです。
 最近、私は、聖霊を祈り求めるということが理屈抜きに分かってきました。聖霊が来てくださらないと、私の心は“空き家”となり、そこにサタンの霊が、悪霊が住みこもうとします。そして、私の思考を悪い方向に向けようと働きます。自分の利益のためだったり、あるいはネガティブに、破滅の方向に、私の思考を導こうとするのです。霊感が強くなったとか、オカルト的な意味で考えているのではありません。人の心には、その心の外からの働きかけが必要だということを強く思うようになったのです。だから、私はいつもこう祈ります。聖霊なる神さま、あなたが私の内に住んでサタンの霊を追い出し、私の霊を助けてください。その言葉が自然に祈れるようになりました。
「天の父は求める者に聖霊を与えてくださ」います。人は物や環境によっては本当の幸せを得ることはできません。私たちを“本来の姿”に変える聖霊を祈り求めましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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