坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年6月12日 主日礼拝説教  

     「聖霊を受けましたか?」

聖 書 使徒言行録19章1~10節

説教者 山岡 創牧師
◆エフェソで
1アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、2彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊(せいれい)を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。3パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。4そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔(く)い改(あらた)めの洗礼を授けたのです。」5人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。6パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言(いげん)を話したり、預言(よげん)をしたりした。7この人たちは、皆で十二人ほどであった。
8パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。9しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。10このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。


「聖霊を受けましたか?」
 ドキッとするかも知れません?「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」(2節)。そのように聞かれたら、私たちは、ドキッとして答えに詰(つ)まるかも知れません。果たして自分は聖霊を受けたのだろうか?‥‥‥確かに、信仰に入ったしるしとして洗礼を受けた。でも、洗礼を受けた時に“私は確かに聖霊を受けました”と明言できる実感がない。自信がない。そんなふうに感じている人もおられるかも知れません。「聖霊を受けましたか」。私たち一人ひとりの信仰を揺さぶり、意識させ、見直させる問いかけです。
         *
 現在のトルコ、エーゲ海に臨む港町エフェソに、パウロはやって来ました。既にエフェソには、イエスを救い主キリストと信じ、その「弟子」となった人々がいました。18章の終わりの箇所(かしょ)から推測するに、おそらく彼らは、アポロからイエスによる救いを聞き、信じて洗礼を受けたものと思われます。
 けれども、パウロはエフェソの信徒たちに、何か違和感を感じたようです。何かが違う‥‥その違和感の正体は、彼らの信仰に聖霊が感じられない、ということでした。そこでパウロは彼らに尋(たず)ねます。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」。「いいえ、聖霊があるかどうか聞いたこともありません」(2節)と彼らは答えました。そして、自分たちは「ヨハネの洗礼」(3節)を受けました、と言うのです。
 ヨハネの洗礼。かつて主イエスが宣教(せんきょう)を始める数年前に、ヨハネという人が、ユダヤの荒れ野で人々に悔い改めを呼びかけました。悔い改めとは、神さまの御心(みこころ)に自分の思いを向けずに自分本位に生きて来た生き方(それが“罪”)を転換し、神さまに自分の心を向け、力を尽(つく)して神さまを愛する生き方へと改めることです。そのような悔い改めのしるしとして、ヨハネはヨルダン川で「罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼」(マルコ1章4節)を授(さず)けていたのです。
 悔い改めの洗礼を授けながら、ヨハネは語りました。「わたしよりも優(すぐ)れた方が、後から来られる。わたしはかがんでその方の履物のひもを解く値打もない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1章7~8節)
 自分の後から、神の独り子である主イエス・キリストがおいでになる。キリストは、あなたがたに洗礼を授け、あなたがたの内に、聖霊なる神となって宿ってくださる。その霊的な働きによって、あなたがたは御言葉(みことば)を悟(さと)り、神の愛を信じ、互いに愛し合うことの喜びを知り、心を開いて生きるようになる。
 実際、主イエスは洗礼をお授けにはならなかったようです。でも、主イエスの教えと愛を受け継いだ使徒たちが、神の愛と主イエスの救いを信じる洗礼を授けるようになり、それが聖霊の洗礼、聖霊を受ける洗礼となりました。
 エフェソの信徒たちも、それを聞いて、「主イエスの名によって洗礼を受け」(5節)ました。すると、彼らに「聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした」(6節)ということです。神の愛を証(あか)しし、語り始めたのです。
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 「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」。この問いかけに戻ります。皆さんは何とお答えになりますか?‥‥はい、聖霊を受けました。そんなふうに自信を持って答えられない、と思うかも知れません。でも、聖霊を受けました、と答えることができるのです。主イエス・キリストを“私の救い主です”と信じて受け入れたなら、そう答えて良いのです。
 パウロは、コリントの信徒への手紙(一)12章で、こう言います。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(12章3節)と。
 洗礼を受ける時、私たちは、“イエスはわたしの救い主です”と告白し、誓約(せいやく)します。その後、毎週の礼拝においても告白します。それは、聖霊によらなければできないことだとパウロは言います。確かに、信仰がなく、理性的な思考だけだったら、私たちは冗談にも、イエスは救い主ですと告白し、誓約することはできないでしょう。そこには、人の理性と共に、理性を越えた信仰を生み出す聖霊が働いているのです。
 主イエス・キリストは私の救い主です、と信じる人は、聖霊を受けている。それが、聖書の論理です。大切なことは、それが信仰生活の中で実感として感じられること。心にストンと落ちて納得されていることだと思います。
 ただし、実感と言っても、体感的な実感ではありません。例えば、私たちはシャワーを浴びていれば、お湯が自分の体に当たっていることを実感します。お風呂に入れば、お湯の中に浸(つ)かっている感覚を実感します。けれども、聖霊とはそんなふうに感じられるものではないので、ある意味で私たちは困るのです。答えに詰まるのです。
 けれども、自分は聖霊を受けていると実感できることがあります。それは、信仰によって自分は確かに救われていると心が実感している時です。自分は神さまに愛されて、赦(ゆる)されて、生かされていると確信している時です。聖書の言葉によって示されている人生の原則が、愛の原則が、心にストンと落ちて納得されている時です。“私は神さまに愛されている。だから、自分を愛し、人を愛し、互いに愛し合う”。それが救いだと、幸せだと納得し、実感しているならば、“あぁ、これは私の理解力や知恵ではない。聖霊なる神さまが私に悟らせてくださったことだ”と理屈抜きに思えるでしょう。
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 信仰を持って、洗礼を受けていても、自分は本当に救われているのだろうか?と揺(ゆ)らぎ、不安を感じることもあるでしょう。でも、聖霊なる神さまは確かに、ここに、目の前に、私たちの内におられるのです。私たちが、その恵みに気づいていないだけです。
 ヨハネの黙示録(もくしろく)に、主イエスのこんな言葉があります。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3章20節)
 聖霊なる神さまは、一人ひとりの心の戸口(とぐち)まで来ておられます。戸を叩(たた)いておられます。それに気づくだけです。気づいて開けるだけです。いつか気づけるように、私たちは、礼拝を守り、聖書の御言葉に耳を傾け、祈りをささげ、互いに分かち合い、愛し合う交わりを続けるのです。
 そして、一度、自分が神の愛によって救われているという恵みが腑(ふ)に落ちたなら、救いの原則が腹にストンと落ちたなら、私たちの信仰は確信的なものに変わります。信仰生活は、その確信、その実感にたどり着くまでの修行です。そしてたどり着いてからの喜びの繰り返しです。たどり着くために、また繰り返し味わうために、その願いを持って主イエス・キリストを礼拝し、御言葉に聞き、祈る生活を歩み続けましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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