坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年6月19日 主日礼拝説教  

     「愛はにじみ出るもの」

聖 書 使徒言行録19章11~20節

説教者 山岡 創牧師

◆ユダヤ人の祈祷師(きとうし)たち
11神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。12彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。13ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。14ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。15悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」16そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭(あ)わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。17このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。18信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。19また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。20このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

 

「愛はにじみ出るもの」
 「いったいお前たちは何者だ」(15節)。映画とかに出てきそうなセリフです。悪役が自分たちの計画を、だれだか分からない相手に阻止されて、その正体が分からず、イラ立って「いったいお前たちは何者だ」と大声で言いそうなセリフです。普通に考えれば、私たちが普段の生活の中では、まず言われそうにない言葉です。
 でも、私はふと、この言葉が、アダムとエヴァがエデンの園で神さまから問いかけられた言葉と重なり合うような気がしました。旧約聖書・創世記3章の物語ですが、食べてはいけないと禁止された木の実を食べてしまい、神さまを恐れて木の陰に隠れた二人が、神さまから問われるのです。「どこにいるのか」(3章18節)と。
 「どこにいるのか」。単に二人が居る“場所”を尋(たず)ねているのではありません。あなたたちは本来、何者なのか?と、自分を見失った二人に問いかけているのです。そしてそれは、「いったいお前たちは何者だ」と、その人の内側を、人格を問う言葉です。日常生活ではまず言われなくとも、神を信じる者が、いつも心の中で問いかけられている言葉なのではないでしょうか。その問いかけに、私たちは何と言って答えるでしょうか。その答えによって、私たちの生き方は大きく変わって来るのです
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 「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」(15節)。ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちに、悪霊はこう言い返しました。スケワの息子たちは、各地を巡(めぐ)り歩いて人の病を癒(いや)し、悪霊払いをする「祈祷師」(13節)でした。彼らはエーゲ海の港町エフェソにやって来ました。そして、町を巡っていると、パウロというユダヤ人が、主イエスの救いを宣べ伝え、主イエスの名を唱えて、目覚ましい病の癒しや悪霊払いの奇跡を行っている、という噂が聞こえてきたのです。主イエスのことは信じていなくとも、彼らも同じ神を信じるユダヤ教徒ではあります。そこで、彼らは試(こころ)みに主イエスの名を唱えて、「パウロが宣(の)べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」(13節)と悪霊払いをしてみたのでしょう。そして、最初それがうまく行ったのかも知れません。味をしめた彼らは、その後も主イエスの名を使ったのでしょう。けれども、ある悪霊に正体を見破られました。そして、「だが、いったいお前たちは何者だ」と言い返され、飛びかかられ、ひどい目に遭(あ)わされたので、彼らは裸で逃げ出したということです。
主イエスのことを心から信じていない者が、主イエスの名前だけを自分の利得のために利用している。それは、その人の中味と行動とが一致していない、内側と外側とが一致していない偽善(ぎぜん)的な行動でした。悪霊はその偽善を見抜いたのです。偽善的な行動が許せなかったのです。言い方を変えて言えば、中味と違う生き方は必ずボロが出て、不幸を招くということだと思います。“化(ば)けの皮”はどこかで必ずはがれるのです。
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 ネットを検索していたら、一人の女性会社員の方が、〈打算的な自分、いつか化けの皮がはがれるのでしょうか〉という投稿をアップしていました。新卒で入社して30歳になるが、自分は会社でずっと打算的に生きて来た、というのです。
 社内では感情はほぼ出さず、基本ヘラヘラしながら誰にでも同じトーンで対応することで、穏(おだ)やかで優(やさ)しい人のように振る舞い、相手が褒(ほ)めてほしいポイントを見極め、思ってもいないお世辞をあたかも本音であるかのように伝えて自分の株を上げて嘘の信頼を作り上げ、余程(よほど)理不尽な仕事以外は引き受けて相手に貸しや負い目を感じさせることで、自分が困った時に助けてもらいやすい環境を作り上げ、嫌われている上司とも仲良くなることで、いい感じに利用して実力以上の評価を得て、それでも自分はまだまだ何も皆さんに貢献できていませんみたいなことを言っていたら、勝手に聖人君子みたいな扱いになっていました。でも、それは嘘の私です。
 本当は短気で、いつもイラついて心で罵倒(ばとう)しまくっていますし、相手に対するリスペクトもゼロで基本(きほん)見下しています。‥‥上司もチョロい&それを利用しない周(まわ)りもバカだと思っています。‥‥嫌がらせがしつこい時は周りを味方につけて自分の手を汚さずに相手を潰(つぶ)します。‥‥人間としてとても褒(ほ)められたものではありません。‥‥いつか化けの皮がはがされるのでしょうか。
 この女性も、このような投稿をするということは、自分の打算的で偽善の生き方に、いくらか良心の痛みを感じているのかも知れません。そして、そのような内側と外側の違う生き方は、決して幸せにはなれない。心からの喜びは生まれないと思うのです。
 でも、この女性の投稿を読みながら、決して他人事ではないのではないか、ここまでではないかも知れないけれど、自分の内にもどこかに打算的な、偽善的なものがあって、それを隠して生きているのではないか、とそんな思いが脳裏をよぎりました。
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 そうだとしたら、「いったいお前たちは何者だ」。“いったい私は何者なのか”。その問いかけに、私たちは何と答えることができるでしょうか?おそらく私たちは“真っ黒な人間”というわけではないと思います。誠実で、正直なところもあり、人に優しいところもあり、損得の計算などせずに動くところもあると思います。けれども、自分の中味のすべてがそうではない。不誠実で、ずるく、嘘つきの自分がいる。人を妬み、憎み、争う自分がいる。打算的で、愛と勇気の欠けた自分がいる。そして、それを認められない、認めたくない自分がいます。エデンの園のアダムとエヴァと同じです。
 そういう私たちのことを、たぶん聖書は“罪人”と呼ぶのでしょう。法律を犯した罪人ではなく、神さまの前に立った時、人として罪人だということです。
 けれども、それがあなたの中味だ、正体だと、聖書は言いません。それが聖書のファイナル・アンサーではないのです。聖書は、そのような私たちが、神の豊かな愛の下で、赦(ゆる)され、認められ、愛されている存在なのだ、と私たちに語りかけます。主イエス・キリストを通して答えを示します。もし私たちが、自分が罪人であることに気づき、認め、打ち砕(くだ)かれて、けれども、そんな自分に注がれている神の愛を信じて受け入れたなら、私たちは“愛されている罪人”になります。それが、「いったいお前たちは何者だ」という問いかけに対する聖書の語りかけであり、それを信じた人の答えなのです。
 その答えを、自分の内にはっきりと持ったなら、私たちの心に喜びと感謝が湧(わ)いてきます。愛と謙遜(けんそん)から生まれる優しさに満たされます。私は愛されている。認められ、受け入れられている。そう感じたら、私たちの心は温かい気持で満たされるのです。それが内側から外側へ、私たちの言葉や態度、行動ににじみ出ます。愛は内側にあるものがにじみ出てこそです。それによって私たちは“愛の人”として生きるようになるのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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