坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年6月26日 主日礼拝説教  

     「人が造った神」

聖 書 使徒言行録19章21~29節

説教者 山岡 創牧師
◆エフェソでの騒動
21このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。22そして、自分に仕(つか)えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。
23そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。24そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。25彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、26諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏(ふ)せ、たぶらかしている。27これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光(ごいこう)さえも失われてしまうだろう。」
28これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉(えら)い方」と叫(さけ)びだした。29そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。

「人が造った神」
 宮大工という職業をご存じでしょうか?神社仏閣の建築と補修に携(たず)わる職業です。釘(くぎ)やボルトといった金属の部品を用いずに木材を組み合わせる木組みという技術は、現代の木造家屋の建築ではあまり見られなくなりました。宮大工はその技術を用(もち)いて神社仏閣の建築や補修に当たるため、非常に高度な建築技術が求められる職種です。
 私は、日曜大工が大好きで、室内のちょっとした家具なら自分で作ります。坂戸いずみ教会が、この会堂に移転する前、まだ中古家屋で礼拝していた時には、講壇(こうだん)や聖餐卓(せいさんたく)、週報ボックス等も自分で作りました。そんな私にとって、大工というのは憧(あこが)れの職業でありまして、なかでも宮大工という職種は本当にすごいなぁ、宗教信仰抜きだったらやってみたいなぁ、と思う職業です。
 もちろん、クリスチャンは宮大工をやってはいけない、という決まりはありません。でも、“仏作って、魂(たましい)入れず”という諺(ことわざ)ではありませんが、仏教、神道を信じていない人間が神社仏閣の建築や補修の仕事をするのは、何だか失礼な気がして、技術の問題以上に何か大切なものが欠けているように思うのです。
 逆に、クリスチャンだからと言って、人が「手で造ったものは神ではない」(26節)と仏教神道を否定するつもりはありません。現代においてキリスト教信仰に生きる人間として、他宗教を信じている人の信仰は尊重します。その上で、「手で造ったものは神ではない」という言葉は、私たち自身の信仰において、深く考えてみるべき言葉です。
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 銀細工師。エフェソにはそのような職業がありました。彼らは、エフェソの町の守り神アルテミスの神殿模型を銀で作り、かなりの利益を得ていたようです。
 ところが、この町にパウロがやって来ました。彼は2年間、エフェソに留(とど)まり、ティラノという人の講堂で、主イエス・キリストの救いを宣(の)べ伝えたので、エフェソに住む人は皆、「だれもが主の言葉を聞くことに」(10節)なったのです。嘘(うそ)か本当かパウロが身に付けていた手ぬぐいや前掛けを病人に当てるだけで病が癒(いや)されたり、悪霊がパウロの言うことには聞き従ったりしたので、多くの人々がキリスト教に入信しました。信じて自分の罪を告白する人、魔術の本を焼き捨てる人が続出し、主イエスを信じる信仰は勢いよく広まりました。
 その煽(あおり)りを食ったのが銀細工職人たちでした。アルテミスから主イエス・キリストに改宗した人が多く、アルテミス神殿の銀細工模型が以前のようには売れなくなってしまったのでしょう。そこで、銀細工師の親方であるデメテリオが、野外劇場に職人仲間を集めて、自分たちの利益を守るためにパウロを非難し、アルテミス信仰を擁護(ようご)しようとしたのです。そして、それを聞いた人々がパウロとキリスト教に対して腹を立て、“大いなるかな、エフェソ人のアルテミス”(28節、口語訳聖書)と大声で合唱し、一般の群衆も加わって大混乱、あわや暴動が起こりそうになったのです。
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 「手で造ったものは神ではない」(26節)。そう言ってパウロがアルテミス信仰を否定したとデメテリオはぶち上げました。けれども、よくよく考えれば、人が手で造ったものは神ではないことは確かです。それは、木か石か、あるいは金属か、いずれにしても“物”に過ぎません。ましてその模型ならば尚更(なおさら)でしょう。
 では、人はなぜ“物”である仏像や神の像を拝(おが)み、祈るのでしょうか。それは、象そのものを神と信じているからではないと思います。その像によって象徴(しょうちょう)されている、人間を遥(はる)かに超えた存在、その力、知恵、働きを信じるからでしょう。目には見えないけれど、世界を治め、人間を導き、支える霊的な何かを信じるからでしょう。プロテスタント・キリスト教は像を造りませんが、強いて言えば、形ある十字架が、主イエス・キリストを象徴する“物”だと言えます。
像とは、神を指し示す象徴なのです。それを了解の上で像に向かって手を合わせたとしても、“偶像崇拝”の宗教だとは言えないと思います。むしろ、デメテリオのように、そう言った像や物を利用して、金儲けをしようと考えることの方が人間として性質(たち)が悪い。神も人も自分の食い物にしているからです。
 「手で造ったものは神ではない」。像や物そのものは神ではありません。そういう意味で、私たちは、目に見える神の像を造りません。
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 けれども、私たちは、違う意味で“神”を造ってしまうことがあります。それは、自分の心の中に、勝手に“神さまとはこういうお方だ”と自分に都合の良いイメージを造り上げ、その神を信じていることがあるということです。そして、自分の心の中に思い描いている“神”に合わないものは信じようとしないことがあるのです。
 私は牧師の家庭に生まれ、キリスト教という環境で育ちました。16歳の時に洗礼を受け、イエスを救い主キリストと信じて誓約しました。けれども私は、聖書によって示される主イエス・キリストとその父なる神、聖霊なる神を全く理解していませんでした。
 私は、キリスト教の神の救いとは、聖書に書かれている神の命令を守り、行うことで、神さまに認められ、愛される。けれども、神の命令を守れなかったら、神さまから評価されず、捨てられると思い込んでいました。そのように信じていた当時の私の聖書には、“○○しなさい”“○○してはいけない”と命令の言葉にばかり赤線が引いてありました。けれども、それは主イエスが断固反対したユダヤ教ファリサイ派の人々と同じ律法主義の信仰であり、行動主義、結果主義の考えでした。私の信仰は、聖書の言葉を聞かず、自分勝手に造り上げた信仰であり、神さまのイメージでした。そのように私たちは、神さまのことを勘違(かんちが)いしていたり、あるいは自己本位な神を造ることがあるのです。
私は、神さまに行き詰まりました。その時、初めて心を開いて聖書の言葉に耳を傾けるようになっていったのだと思います。そして、聖書が示す神が“愛の神”であることを知りました。神さまは主イエスを通して、どんな時も、どんな場合も、どんな自分でも、無条件で愛し、大切にしてくださる方なのだと信じられるようになっていきました。自分で造った神さまではなく、聖書によって示された神さまを信じるようになりました。
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 パウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(10章14節)
 もちろん、今の自分の信仰が完全なものだとは全く思いません。読んでいても悟(さと)っていないことが少なからずあると思います。信仰の道は常に求道です。大切なことは、聖書の言葉、キリストの言葉に耳を傾け、考え、従う姿勢を失わないことです。その姿勢さえあれば、私たちはきっと一歩一歩神さまに近づくことができるでしょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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