坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年7月3日 主日礼拝説教   

   「自分の信仰と他者の宗教」      

聖 書  使徒言行録19章30~40節
説教者 山岡 創牧師

30パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。 31他方、パウロの友人でアジア州の祭儀(さいぎ)をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。 32さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。 33そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促(うなが)したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。 34しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。 35そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。 36これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。 37諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒瀆(ぼうとく)したのでもない。 38デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。 39それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。 40本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。


「自分の信仰と他者の宗教」
 善光寺というお寺が長野市にあります。阿弥陀如来を本尊として祭っている、1400年の歴史を持つお寺です。善光寺の阿弥陀如来は、一つの光を背にして、中央に阿弥陀如来、その両脇に観音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)の三体が祭られているため、一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来と呼ばれるのだそうです。何だかキリスト教の、父、子、聖霊(せいれい)なる三位一体(さんみいったい)の神にちょっと似ているなぁ、と思います。
 今年は、善光寺御開帳といって、7年に一度、本堂でご本尊の姿を拝むことができる年だということで、4月3日から6月29日まで御開帳(ごかいちょう)が行われました。ただし、拝めるのは一光三尊のご本尊ではなく、鎌倉時代にご本尊の身代わりとして造られた前立(まえだち)本尊です。この前立本尊が本堂に安置され、更に本尊と善の綱で結ばれた高さ10mの回向柱(えこうはしら)が本堂前に立てられます。そして、この回向柱に触れると阿弥陀如来とのありがたいご縁が生まれ、その功徳(くどく)に与る(あずか)ことができる、ということです。このご縁に結ばれ、その功徳にあずかろうと、今回636万人もの参拝者があったとのことです。ただ、やはりコロナ禍の影響か、前回より参拝者は10%減だったそうです。
 日本は、神道(しんとう)や仏教が古くからの長い歴史を持つ国です。一時(いちどき)に600万人もの参拝者が集まるというのは、やはりそれだけ日本人に認知されているということでしょう。キリスト教が日本国内でそれだけの参拝者を集めることはまず不可能です。キリスト教が伝来したのは約500年前。その布教が認められてから、まだ150年ほどの歴史です。クリスチャンの人口は1%に満たないですし、まだまだキリスト教と教会が国民に広く認められているとは言い難いのではないでしょうか。そのような宗教事情の中で、教会と私たちクリスチャンは、どのようなスタンスに立ち、どのような意識で伝道していくことができるか、考える必要のあることだと思います。
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 エーゲ海に臨む港町エフェソでは、キリスト教に反対する大集会が起こりました。エフェソは、月の女神である「アルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役」(35節)である町でした。そのため、銀細工職人が銀で造ったアルテミス神殿の模型がよく売れました。(古くは善光寺と長野市もそんな関係だったのでは)
けれども、この町にパウロがやって来て、2年に渡り主イエス・キリストによる救いを宣(の)べ伝え、病の癒し(いやし)や悪霊祓いを行ったため、多くの人々がキリストをあがめるようになりました。そのために神殿の模型が以前のようには売れなくなっていたのでしょう。利益の減った銀細工職人たちは腹を立てました。そこで、親方であるデメテリオの呼びかけで彼らは野外劇場に集まり、キリスト教に対する反対集会を開きました。そこに、よく訳の分らぬ一般民衆も加わって、彼らは2時間もの間、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」(34節)と叫び続け、あわや暴動が起こりそうになったのです。
 そのために、エフェソを支配しているローマ帝国の軍隊の介入と鎮圧を恐れた町の書記官が、集まっている人々を静めに入りました。書記官は、野外劇場に強制的に拉致されてきたクリスチャンのアリスタルコとガイオは、「神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒瀆したのでもない」(37節)と擁護しました。そして、うっぷん晴らしのような行動はせずに、正式に法廷に訴え出るように、と説得して、集会を解散させました。
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 アルテミス神殿を荒らしたのではなく、女神アルテミスを冒瀆したのでもない。他宗教を荒らさず、他宗教の神を冒瀆しない。それが、一つの宗教、自分の神を信じる人間にとって大切な姿勢だと思います。
 けれども、自分の神を信じるあまり、他宗教とその神を否定してしまうことがあります。それは、その人自身の信仰なので、それが善いか悪いかという判断は難しいです。ただ、否定された相手は当然のことながら良い気持はしないでしょうし、それが高じれば対立となり、争いとなり兼ねません。ともすれば、その争いは国家規模になり、政治的な意地や面子(めんつ)と結びつくと、戦争すら起こります。古代世界での民族サバイバルとしての宗教戦争ならば、歴史的に人間がまだ未熟であったため、いたし方ないと思います。しかし、現代社会、現代人として、それで良いとは思えません。キリスト教は、神に愛されている恵みを信じて、神を愛し、自分を愛し、人を愛することが真髄の宗教です。愛を信じ、愛を大切にする。その意味で、私たちが信じる主イエス・キリストも、他宗教を否定し、人と争ってまでもご自分だけを唯一の神として立てよ、とは求めないのではないでしょうか。
 自分の信仰を大切にすること、自分の信仰を深め、高めていくこと、それは当然のことでしょう。それによって私たちの信仰は確信的なものに近づき、人生の確かな拠り所となっていきます。私たちは、そのための信仰生活に、自分の信仰に徹すれば良いのです。他宗教を非難し、他宗教を信じている人の信仰を否定するようなことは不毛ではないでしょうか。自分の信仰を大切にする者として、他の人が信じている宗教信仰も尊重する。それが一人のクリスチャンとして、フェアな態度だと思います。
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 ところで少し話が逸(そ)れますが、皆さんは“宗教”と“信仰”の違いって何だと思いますか?考えたことはあるでしょうか?
 宗教というのは、神や仏など、人間をはるかに超越する知恵や力を持った霊的な存在を示し、またそれを信じる人間の心の持ち方や生き方を客観的に表したものです。客観的であるというのがポイントです。つまり、その宗教に対して“自分”がかかっていないのです。自分の生活、自分の人生が、その宗教と結びついていなければ、それは宗教であって信仰ではありません。言わば、客席から、舞台上の宗教を見ているようなものです。自分が当事者として、その宗教という名の舞台の上で生きてはいないのです。
 それに対して、信仰とは主観的、主体的なものだと言えます。一つの宗教の教えに、自分の生活をかけ、自分の人生が結びつけて生きる。その時、宗教は信仰へと変わります。神さまと自分との間にご縁が生まれ、信頼関係が築かれて、それが心の拠り所になっている。それを“信仰”と呼ぶのです。その宗教に自分が生きているのです。
 この世界には数多くの宗教があります。その中で私たちは主イエス・キリストに出会い、主が示してくださった神の愛によって救われました。主体的な信仰に立ってキリストを「唯一の主」(申命記6章4節)と信じ、自分の信仰に徹し、祈りと感謝と愛を持って生きていきましょう。同時に、宗教的にフェアで、寛容な態度で、他宗教とそれを信じる人々の信仰を尊重していきましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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