坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

2022年7月10日 主日礼拝説教  「生き返った青年」                    
聖 書  使徒言行録20章7~12節
説教者 山岡 創牧師

7週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 8わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 9エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 10パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 11そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 12人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。


「生き返った青年」
 坂戸いずみ教会には、大変ありがたいことに、多くの青年がつながり、集まっています。しかも、ただ楽しいから来るのではなく、御言葉(みことば)によって信仰が成長しています。3月の礼拝では一人の青年が、また4月のイースター礼拝でも、今年1月に成人式を迎えた二人の青年が洗礼を受けました。先日発行された会報103号に掲載(けいさい)されている受洗(じゅせん)の証しからも、その信仰の成長が伺(うかが)えて、本当に嬉しい限りです。
 御言葉による信仰の成長。その成長に、礼拝での説教が大きな要因として影響していると良いのですが、いかがなものでしょう。説教って、決して“おもしろい話”ではありません。自分が関心のある内容であれば集中して聞けるのでしょうが、そうでなければ眠くなってしまいます。思わずうつむき、寝息を立てていることもある。目を見開いて、でも意識はどこかに飛んでいる、なんてこともある。体が傾きそうになって、ハッと我に返ることもあるでしょう。私もかつて青年だった時、説教が聴けるようになるまではそうでした。眠らないように、次のサッカーの試合のイメージ・トレーニングをしたり、その日の昼食は何を食べようか、などと考えて、眠らない努力をしました。
 礼拝堂の長椅子で平安に眠っていて、体が泳ぎ、椅子から落ちるぐらいならいいかもしれません。けれども、今日の聖書箇所に出て来た青年は、3階の窓に腰掛けていて、しかもパウロの説教に眠くなり、そこから落ちてしまったのです。
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 伝道の旅の途中で、パウロは、エーゲ海に臨む港町トロアスに立ち寄りしました。そこには、パウロに信仰を導かれた人たちが、既に先行して到着し、パウロを待っていました。その人々の名前が直前の箇所に記されていますが、彼らの多くはたぶん青年の弟子たちだったと思われます。救いの喜びにあふれ、伝道の志に燃えて、パウロに同行した青年たちだったに違いありません。
 トロアスに立ち寄ったパウロは、その地の信徒たちを集めて、神の言葉を語りました。その中に、トロアスの出身で、エウティコという青年がいました。彼も集まりに参加し、3階の窓に腰掛けて、パウロの話を聞いていました。けれども、その話が夜中まで「長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」(9節)。その瞬間、人々はどんなに驚き、青ざめたか分かりません。そして、みんなで階下に急いで降りて、エウティコを起こしてみると、「もう死んでいた」(9節)というのです。喜びと感謝の交わりが、一気に暗く、絶望的な空気に変わり、大騒ぎになりました。
 けれども、パウロは何事もなかったかのように落ち着いた様子で、「彼の上にかがみ込み、抱きかかえて」「騒ぐな、まだ生きている」(10節)と言うのです。みんなは、えっ?と茫然としたことでしょう。けれども、パウロはいったい何をしたのか、その青年は生き返っており、皆、「大いに慰められた」(12節)ということです。
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 死んだ青年が生き返る。私たちは、この“奇跡の出来事”をどのように受け止め、私たちの人生に生かすことができるでしょうか。
 話は変わりますが、私たちの教会は、30年前の1992年に始まりました。その年のクリスマス礼拝の翌日、教会員の青年が不慮の事故で亡くなりました。27歳、私と同じ歳の青年でした。その日の早朝、教会員であるご両親から連絡を受けた私は、茫然として言葉を失いました。牧師1年目だった私は、ともかく無事に葬儀を行うことで精一杯で、息子を失ったご両親に、どんな慰めの言葉をかけたら良いのか、どう接したら良いのかも分からず、混乱し、恐れていました。そんな恐れと不安の中で、後に私は大きな失敗を犯し、そのご両親を傷つけてしまいました。
 神を信じて一生懸命に祈れば、青年は生き返る。そんな話ではありません。信じて祈れば、だいじょうぶ、悲しみは去る、なんて簡単には言えません。悲しみの傷と心の痛みは生涯続きます。それでも神を捨てない。信じることをやめない。すべてを益に、すべてを良いものにしてくださる神を信じて、どのように神の御心(みこころ)を受け取るか、意味を見出すか、目的を探し当てるか。そのような信仰で、もがき、迷いながら歩む人生の道で、青年が生き返った、という御言葉に心の目が開かれるようになっていくのです。
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 聖書の時代には、そのような奇跡が起こったと信じることもできます。神にできないことは何一つない、と信じるのが信仰の基本です。けれども、現代において、信じれば、文字通り“死んだ青年が生き返る”と信じることは不毛でしょう。
 では、青年が生き返ったということを、あり得ない作り話ではなく、私たちはどのように受け止めることができるでしょうか。
 『きみは愛されるために生まれた』。韓国の牧師、イ・ミンソプが作ったゴスペル・ソングです。
  きみは愛されるため生まれた。きみの生涯は愛で満ちている。‥‥
  永遠の神の愛は われらの出会いの中で実を結ぶ
  きみの存在が私には どれほど大きな喜びでしょう
  きみは愛されるため生まれた 今もその愛 受けている‥‥
 長崎の町で、生きる意味が分からず、愛に飢えていた青少年たちが、この曲に心を打たれ、立ち直りました。彼らは、家族から虐待され、家を飛び出し、同じような境遇の仲間と群れて、いわゆる不良行動を繰り返していたようです。けれども、どのように行動しても虚(むな)しく、何のために自分は生きているのか、と打ちひしがれていた彼らは、ある時、教会を訪ねます。そして、そこに流れていたこの曲を聴いた時、涙を流して感動したのです。そして、彼らはこの曲を長崎の町に広めて行ったということです。
 死んだ青年が生き返ったわけではありません。でも、“生ける屍(しかばね)”のように生きることに絶望していた青年が、神の愛に触れ、自分は愛されるために生まれ、今もその愛を受けていることに感動し、救われました。喜びと希望を持って立ち上がりました。
 神の愛が、死んでいた人の魂を生き返らせる。神の言葉は、そのような“魂の奇跡”を呼び起こします。そして、その奇跡に周りの人もまた、どんなに喜び、慰められることでしょうか。「人々は、生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」。私は、この御言葉をそのように受け止めたいのです。死んだ青年は生き返りません。でも、死んだ魂は神の愛によって生き返るのです。私たちは、この恵みを喜ぶことができるのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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