坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神と恵みの言葉にゆだねる」

2022年7月24日  主日礼拝説教       

聖 書 使徒言行録20章25~32節
説教者 山岡 創牧師  

✞ 25そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国(みくに)を宣べ伝えたのです。 26だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。 27わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。 28どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊(せいれい)は、神が御子(みこ)の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。 29わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。 30また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 31だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。 32そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。


「神と恵みの言葉にゆだねる」
 グッド・バイ(Good by)。英語の別れの挨拶(あいさつ)です。とてもすてきな言葉だと思います。と言うのは、日本語に訳すと“さようなら”という訳語になりますが、その本来の意味は“幸せがあなたのそばにあるように”という内容です。
 けれども、この挨拶、元は少し違う言葉だったようです。グッド・バイではなく、ゴッド・バイ(God by)という言葉だったらしいのです。つまり、“神があなたのそばにいてくださるように”という祈りであり、別れる相手への贈り物とも言える挨拶だったのです。欧米諸国の別れの挨拶には、これと同様のものが多くあります。例えば、フランス語のア・デューや、スペイン語のア・ディオスも“神があなたと共にいてくださるように”という意味です。神への祈りによってお別れする。神さまを信じる一人のクリスチャンとして、何ともすてきだなぁ、と思うのです。
 これらの挨拶には、別れる相手を神さまにおゆだねする、という信仰と愛の思いが込められているのではないでしょうか。親しい人とお別れをする。もはや自分の目は届かない。どんなに心配でも、対話することも、世話をすることも、直接支援することもできない。別れた相手は自分の手の中にはいないのです。
 けれども、そのように別れる相手を神さまにおゆだねする。自分をはるかに超えた神さまの愛と力におゆだねする。“神さま、この人をよろしくお願いします”と祈り、神さまにお任せ。神さまがその人を最善に導き、支えてくださると、神の御手(みて)にゆだねて安心。私も、中学校を卒業した長男を、新潟の高校に送り出す時、また就職する次女を岩手県に送りだす時が、まさにこのような心配と神への祈りの心境でした。
 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(32節)。エフェソに生まれた教会の長老たちに、このように語りかけたパウロの心境は、まさに神への信仰と祈り、そして別れる相手への心配と愛に満ちていたに違いありません。
       *
 3度目の伝道の旅で、パウロは、エーゲ海に臨む港町エフェソで3年間、キリストの救いを宣(の)べ伝えました。その後、フィリピやテサロニケ、コリントにある教会の信徒たちを励ましたパウロは、帰りの道すがら、エルサレムに上ることを決心します。キリストの恵みによって救われると宣べ伝えるパウロは、律法の行いによって救われるとするユダヤ教の主流派と決着をつけなければならないと心に期すものがあったようです。“恵み”か“行い”か、信仰の重大な問題点です。その決着のためにユダヤ教の聖地エルサレムに上る。迫害され、投獄され、もしかしたらキリストのように処刑され、命を失うことになるかも知れない。そのように感じたパウロは、帰路、エフェソ教会の長老たちを集め、信仰の遺言(ゆいごん)とも言える“別れの説教”を語りかけているのです。
「だれの血についても、わたしには責任がありません」(26節)。パウロは力強く、はっきりと断言します。言い換えれば、だれの“救い”についても、私には責任がない、ということです。「神の(救いの)ご計画をすべて」(27節)、あなたがたに伝えた。後は、あなたがたの信仰の問題、自分の責任だよ、という意味です。
とは言えパウロは、彼らのことが心配で、心配でたまらなかったでしょう。なぜなら、「残忍な狼どもが‥‥群れを荒らすこと」(29節)、また教会の内部からも「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる」(30節)ことを予想していたからです。
 当時、主イエス・キリストの救いを信じる信仰は、まだ独立した宗教として確立しておらず、ユダヤ教の一宗派のような立場と教えから抜け切れていませんでした。また、ギリシア思想の影響もだいぶ受けていたようです。
 そのような中で、キリストの愛と赦(ゆる)しという“恵み”によって救われるという信仰を脅かすものは、やはりユダヤ教の“行い”によって救われる、とする考えでした。教会の中にはユダヤ人クリスチャンも少なからずおり、彼らの多くは律法の行いを重視し、恵みを信じる信仰に徹することができませんでした。そのために行いによって救われる信仰に戻ろうとし、異邦人のクリスチャンを引き込もうとすることもあったのです。
 私たち現代のクリスチャンも、ともすれば行い主義になる恐れがあります。自分が何か努力し、結果を出すという“行い”がないと、自分に価値がないかのように、存在する意味がないかのように考えてしまう意識に私たちは引き込まれやすいのです。
 キリストの救いは行いによらず、恵みによります。けれども、異邦人クリスチャンの中には、それを逆用して考える者がいました。元々ギリシアの思想は、精神を重んじ、肉体を軽んじていました。それと相まって、信仰さえあれば体によってする行いはどうでもよい、という退廃的な考えに陥ることがありました。キリストの教えでは、確かに行いによって人の価値と幸せが決まるのではありませんが、だからと言って行いはどうでもよい、とするわけではありません。キリストを通して神さまに愛されていると信じる者が、喜び、感謝して、今度は自分と人を愛して生きる。互いに愛し合い、そこに愛と平和の関係を、コミュニティを生み出す。それが“救い”なのです。
 この救いの信仰からエフェソの信徒たちが逸(そ)れていく、離れていくことを、パウロは恐れ、非常に心配していました。でも、自分の目は、手は彼らに届かなくなる。直接教え、導くことができなくなる。だから、「神とその言葉とにあなたがたをゆだねます」なのです。なぜなら、「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(32節)とパウロは信じているからです。彼ら自身の信仰を通して神の言葉と霊が働くことを祈ってゆだねるのです。
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 さて、自分自身を省みて思います。私は皆さんに何を伝えて来ただろうか?と。「だれの血(救い)についても、わたしには責任がありません」と断言できるような自信は、私にはありません。責任がないと言えるほど、自分が良い導きをしてきたとは思えない。けれども、自分が聖書から何を伝えて来ただろうか、と考えた時、それは“愛と平和”だと言うことができると思います。律法(旧約聖書)の教えの中で、主イエス・キリストが最も重要だと言われたのは、心を尽して神を愛することと、隣人を自分のように愛することでした。そして、この愛の教えの真髄を汲み取って、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と主イエスは弟子たちに、新しい掟を与え、教えました。“愛”がいちばん大切です。そして、神に愛されていることを喜び、互いに愛し合うことによって生み出される“平和”が最も大事です。目の前にいる人と愛し合う“小さな愛と平和”が大事です。そこに救いがあります。
 私はこれを、「神の御計画」として伝えて来ました。いつか私もこの教会を去る時が来ます。でも、その時は「神とその恵みの言葉」とに皆さんをゆだねます。神を信じ、御言葉を学び続け、惑わされずに、愛と平和の道を歩み続けてください。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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