坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「受けるより与える方が」

2022年7月31日 主日礼拝説教                            
聖 書 使徒言行録20章33~35節
説教者 山岡 創牧師

✞  33わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。 34ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。 35あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

 

「受けるより与える方が」
 「受けるよりは与える方が幸いである」(35節)と主イエスは言われた。こう言ってパウロはエフェソの教会の長老たちに、この言葉を「思い出すように」(35節)と語りかけています。なぜなら、「この言葉」(32節)がエフェソの信徒たちの信仰と人格を「造り上げ」、「恵みを受け継がせる」(32節)と信じているからです。
 3度目の伝道の旅の帰路、パウロはエフェソの教会の長老たちを呼び集めました。この後、聖地エルサレムに上り、ユダヤ教との対決を覚悟しているパウロには、これがエフェソの信徒たちを教え諭(さと)す最後の機会だという思いがありました。
 その最後の説教において、パウロは万感の思いを込めて、「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」と直前の32節で語りました。そして、その恵みの言葉として、パウロが具体的に語ったのが、「受けるよりは与える方が幸いである」という教えでした。その意味では、この言葉に救いのすべてがかかっている。すべてが集約されている、とさえ言うことができるのではないでしょうか。
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 「受けるよりは与える方が幸いである」。この言葉を、皆さんはどのように感じ、受け取られるでしょうか?どちらかと言えば、私たちは、与えるよりは受けたい、と考えるのではないでしょうか。単純に考えれば、受ける方が得をするのです。パウロが「金銀や衣服」(33節)のことを取り上げていますが、これら金品を受け取る方が得なわけです。そして、目に見える金品や物質を受け取る方が幸いだと考えるならば、パウロが語る言葉は理解できない、むしろ損をして、不幸になるではないかと思われるでしょう。けれども、人の人生には、そういった幸いとは全く違う“幸い”があるのです。
 私が青年だった頃、属していた初雁教会(川越市)でよく、青年のキャンプを行いました。その時の朝の礼拝で、一人の青年が証ししてくれた話を、私は今も、印象深く覚えています。その青年は、自分がだれかのために何かをする時、“‥してあげる”ではなく、“‥させていただく”と考えるようにしている、と話してくれました。
 自分がだれかのために、時間を使い、労力を使い、お金を使って何かをする。それは、相手に自分の時間、労力、お金を与えるということ、つまり相手に“あげる”行為です。あげた分だけ自分のものが減るわけで、あげたものに見合う報酬がなければ、損をしたことになりますし、そうであれば、相手によって、場合によっては、やりたくない、面倒だと思うこともあるでしょう。そういう考え方だと、得られるものは“してあげている”という優越感だけかも知れません。それでは、与えるということが、その人を成長させ、その人を造り上げる機会にはならないのです。
 けれども、“させていただく”という意識を持って、相手に時間や労力やお金を与えると、与えることから反対に“いただけるもの”が色々と出てきます。まずは謙遜を学び、謙遜の思いをいただくことができます。その行為によって相手が喜んでくれたら、自分が役に立てたと嬉しくなり、喜びをいただくことができます。目に見える見返りがなくても、もし相手が微笑んで“ありがとう”と言ってくれたら、私たちは笑顔と感謝という最高の贈り物をいただくことができます。そういった一つ一つをいただくことで、それは自分にとって感謝する機会となり、見返りを求めない愛を学ぶ機会となります。
 このように、与えるという行為であっても、意識によって全く変わります。与えることによって自分がいただき、豊かになり、喜びと愛が心に蓄えられていくのです。愛が豊かにあるところでは、人は幸せだと言うことができるのではないでしょうか。
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 その意味で、“与える”とは、言い換えれば“愛する”ということにほかなりません。そして、神を信じる私たちが、人生において人を愛する根拠は、自分が神に愛されていることを信じる信仰にあります。
 何よりもまず、父なる神が、ご自分の独り子であるイエス・キリストを、私たちの救いのために、この世に与えてくださいました。父なる神が、独り子イエスを、私たちのために与えてくださった行為が、何よりも私たちに対する神の愛を表わしていると、聖書は、特にヨハネによる福音書3章16節は語っています。
 そして、私たちの世界に、人となって来られたイエス・キリストは、見返りを求めず、命懸けで、弟子たちを愛しました。人を愛し、敵対する者をも赦(ゆる)し、神の愛を示されました。その主イエスが、私たちに言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と。愛するとは、与えることです。自分が持っている物質的なものも、精神的なものも、そして究極的には“自分自身”を与えることだと、献(ささ)げることだと言えるでしょう。
 その主イエスが、「受けるよりは与える方が幸いである」と言われました。実は、キリストがこのように言ったとは、4つの福音書(ふくいんしょ)のいずれにも記されていません。けれども、この言葉に通じる言葉はあります。例えば、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺(ゆ)すり入れ、あふれるほどに量りをよくしてふところに入れてもらえる」(ルカ6章37~38節)という言葉です。これは、単純に受けるか、与えるかという内容ではありません。主イエスが語られた別の言葉に言い換えるならば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)という“黄金律(おうごんりつ)”と呼ばれる言葉に当たると思います。
 人にしてもらいたいと思うことを、受けたい、受けたいと自分にばかり求めるのではなく、人に与える。必ずしも見返りがあるわけではありません。けれども、それは天に宝を積み、蓄える行為です。そして、神さまは私たちの愛の行為を喜んでくださっています。そして、その気持と行為に、だれかが応えてくれることもきっとあります。笑顔を、感謝を、愛を返してくれることがあります。
 『賢者の贈り物』。オー・ヘンリーというアメリカの作家が、イエス・キリストに贈り物を献げた博士たちからヒントを得て描いた作品です。若く、貧しい夫婦、ジムとデラ。二人はそれぞれ、クリスマスに相手に贈り物をしたいと思います。でも、お金がありません。そこで、デラは自分の美しい髪を売り、ジムのために懐中時計(かいちゅうどけい)に付ける鎖を買います。一方、そうとは知らないジムは、デラのために大切な懐中時計を売り、髪に飾る宝石の付いた櫛(くし)を買います。やがて家で顔を合わせた二人はびっくり。髪を失い、懐中時計を失い、二人は不幸になったのでしょうか。いいえ、とんでもない!二人は、笑顔と感謝と愛という、掛け替えのない贈り物を、期せずして相手から受け取ったのです。
 与えることによって神さまに喜ばれ、自分も喜びに満たされ、相手から愛を贈られる。
それはまさに“幸い”な人生、愛によって救われている人生だと私は思います。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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