坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「決めつけてはいけない」

2022年8月28日 主日礼拝説教

聖 書 使徒言行録21章27~36節

説教者 山岡 創牧師
 パウロ、神殿の境内(けいだい)で逮捕される
27七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動(せんどう)して彼を捕らえ、28こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」29彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都(みやこ)でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。30それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆(か)け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。31彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。
32千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴(なぐ)るのをやめた。33千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋(たず)ねた。34しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々(そうぞう)しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。35パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。36大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。

 

  「決めつけてはいけない」
 「その男を殺してしまえ」(36節)。大勢の民衆がパウロに向かって叫びました。パウロが律法と神殿を汚(けが)して神を冒涜(ぼうとく)するようなことをした、と思ったからです。
主イエスが十字架に架けられた時のことを連想します。「十字架につけろ」。ユダヤ人の最高法院は、主イエスを裁(さば)き、神への冒涜罪で死刑のジャッジを下しました。そして、主イエスを、ローマ帝国のユダヤ州総督であるピラトのもとに連行しました。当時は、ユダヤ人を支配しているローマ帝国が、人を死刑にする権限を持っていたからです。
総督(そうとく)ピラトの前で、主イエスの裁判が始まったとき、その場に集まった群衆は叫びました。「十字架につけろ」(マルコ15章13節、他)と。どうして群衆は、それほどに激しく感情を高ぶらせたのでしょうか?それは、主イエスが神を冒瀆したと感じたからかも知れません。ユダヤ人の最高法院で、主イエスが、自分は神の右に座ると証言したことを、議員たちは、神への冒涜罪とジャッジしました。総督ピラトの前に集まった群衆には、そのことが知らされて、群衆は主イエスに激怒していたのかも知れません。
パウロも、ユダヤ民衆の手でエルサレム神殿の境内から引きずり出され、あわやリンチで殺されそうになっていました。ローマの千人隊長と兵士が駆け付けたので事無きを得ましたが、それでも納まらない民衆が「その男を殺してしまえ」と叫びながら、兵士たちの後について来たといいます。
それにしても、どんなに相手を否定したとしても、「殺してしまえ」は、人として言ってはならない言葉ではないでしょうか。人の命を奪う権威は人にはない。人の命を召すことができるのは神さまだけだと思うからです。それほどまえに“人の一線”を越えさせる人の思いとはいったい何なのでしょうか?
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 アンティオキア教会を拠点として3度目の海外伝道の旅に出ていたパウロは、その帰り道、ユダヤ教の聖地エルサレムに上りました。海外の異邦人教会で集めた支援献金をエルサレム教会の貧しい人々に渡すため、そしてパウロが宣(の)べ伝えているイエスの救いをエルサレム教会に承認してもらうためでした。
 ユダヤ人は、律法を行うことによって神に祝福され、救われると信じていました。けれども、主イエスの救い、その恵みを知ったパウロには、もはや行いによる救いは考えられませんでした。パウロはガラテヤの信徒への手紙やそのほかの手紙でも語っています。「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもイエス・キリストを信じました」(ガラテヤ2章16節)「わたしは、神の恵みを無駄にしません。もし人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(同2章21節)。人は律法の行いではなく、十字架に架けられた主イエスの恵みによって、この恵みを信じる信仰を通して救われる、というのがパウロの宣べ伝えている救いなのです。
 そのような確信を持ってパウロは宣べ伝えていたので、直前の21節にあるように、ユダヤ人からは「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、あいつは律法を無視するようなことを教えていると思われていたのです。
 しかも、エルサレムに戻って来たパウロが、エフェソ出身のギリシア人トロフィモをユダヤ人しか入れない神殿の境内に連れ込んで、聖なる場所を汚したと彼らは激怒しました。それは全くの誤解で、パウロがエルサレム教会の長老ヤコブから勧められて、律法に従って誓願(せいがん)を立てている4名のユダヤ人クリスチャンを、後見人として神殿に連れて行っただけでした。それを、アジア州から来たユダヤ人たちが、ギリシア人を境内に連れ込んだと勘違いして、エルサレムのユダヤ人民衆を巻き込んだのです。とんだ誤解と思い込みから、パウロは、神を冒瀆したと境内から引きずり出され、殺されそうになったのです。
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 さて、宗教信仰はともすれば狂信的になることがあります。“神のために”という思いから、神のためならば何をしてもいいという考えになり、自分と違う考えの人を神への冒涜だと決めつけ、排除し、行き過ぎれば殺そうとさえする行動になるのです。もちろん、現代人として真っ当な感覚を持っていれば、そんなことにはなりません。
 けれども、私たちはそこまでにはならなくとも、先入観と偏見から人をジャッジし、決めつけることがあるかも知れません。パウロを殺そうとしたユダヤ人の心にも、根本的にあったものはそれではないかと思うのです。彼らには、パウロは「子供に割礼(かつれい)を施すな。慣習に従うな」と海外のユダヤ人に対して律法から離れるように教えている、という先入観がありました。また、「この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている」(28節)という偏見がありました。だから、今も「ギリシア人を境内に連れ込んだ」と決めつけ、「聖なる場所を汚した」(28節)、冒涜だ、黒だ、とジャッジしたのです。
 先入観や偏見でジャッジをせず、決めつけないこと。それは、神の前に、その見守りの下で生きる人間の態度です。神に造られた人間の謙遜(けんそん)な態度です。そして、それが人と人とが共に生きることができる平和を生み出します。
 大阪市立大空小学校の初代校長をなさった木村泰子(きむらやすこ)先生は、子どもを先入観で見ず、ジャッジしないということをとても大切にし、学校造りに浸透させた先生でした。“この子はこういう子だから”と決めつけず、“だからこうなった”“こういうことだ”と白黒をジャッジしない。まずその子の言葉を聞くこと、考えと気持を理解すること、そしてそれを通じ合わせることをとても大切になさるのです。木村先生は言われます。
 集団でともに学び合う中で必ず起きるのは、けんかです。よく大人が仲裁に入り「どっちが悪いか」を意見する場面を見ますが、私は絶対に正・悪を決めない。ジャッジをしません。唯一(ゆいいつ)大人がサポートできる部分は、この子の気持と、そっちの子の気持を「通訳」するだけです。「なんで怒ってるん?」「そのとき、どう思ったん?」「なんでそう言うたん」、一貫して、子どもと子どもの通訳に徹します。そうすることで、子ども同士が相手の気持が理解できるようになる。‥‥それが学び合いの中での教師の役割です。(『「みんなの学校」が教えてくれたこと』167~168頁、小学館)
 大人になっても“けんか”は起こります。誤解や決めつけによって対立や争いが起こります。子どもだけでなく、大人にも、平和に生きるための“通訳”は必要です。
 実際、大人になったらこのような“通訳”のサポートはまずありません。だからこそ、神さまが、主イエスが、私たちの間に立って、和解のための“通訳”をしてくださっている。聖書を通して、そのことに気づかせていただきたいものです。神さまは私たちのことを“罪人”だと決めつけません。“だから黒だ”とジャッジしません。そういう愛の空気で深呼吸して、私たちも決めつけず、ジャッジせず、聞くことを心がけたいです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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