坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「お宝発見!」

2022年9月4日 主日礼拝説教     

聖 書  使徒言行録22章1~5節   
説教者 山岡 創牧師

 1「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」 2パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。 3「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法(りっぽう」について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。 4わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛(しば)り上げて獄(ごく)に投じ、殺すことさえしたのです。 5このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」

 

「お宝発見!」
 最近、私は家の中を少しずつ片付けています。1週間に最低何か一つ、要らないものを捨てるのが目標です。先週も3階にある屋根裏倉庫にもぐって、段ボール箱を2つ取り出してきました。倉庫には、転居して以来17年間、捨てずに溜(た)め込んで来た物が色々とあります。段ボール箱を開けて、中身を確認。すると、一つの箱の中に“お宝”を発見しました。何だと思いますか?‥‥‥それは、古い『埼玉地区通信』です。私たちの教会が属している日本キリスト教団埼玉地区が発行している通信で、地区内の牧師の言葉や信徒の証(あか)し、地区の活動や諸教会の様子等が記されています。いちばん古いものは1971年5月に発行されている第2号でした。50年以上前の貴重な通信です。1997年の号まで所々、欠けているものはありますが、埼玉地区のホームページにも2010年以降の通信しかアップされていないので、とても貴重な資料です。今、埼玉地区では古い資料を整理しようという動きがありますので、これは捨てずに提供しようと思います。
 もう一つの箱を開けてみました。そこには、絵本や童話が20冊ほど入っていました。その中に『ロボット・カミィ』という童話がありました。幼稚園児のたけしくんとようこちゃんが、段ボール箱でロボットを作り、“カミィ”と名付けます。すると、カミィは動き出し、色んな騒動(そうどう)を巻き起こす‥‥そんな内容です。これも、初版が1970年、50年以上前に書かれた本です。私は読んだことがなかったのですが、妻からこの本のタイトルをよく聞かされていたので、“これ、捨てちゃっていいのかな?”と尋ねてみました。すると、そこに居合わせた長男が、“それは、まだ発達障がいという概念がなかった時代に、そういう子の姿をロボットになぞらえて、他の子どもたちとの関係を描いた貴重な本だ”と教えてくれました。これも捨てずに取っておこうと思いました。まだまだ倉庫に“お宝”が眠っているかも知れません。
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 主イエスが「天の国」を宝にたとえた話を思い起こします。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13章44節)。ユダヤ人の歴史は戦乱の歴史でした。大国に攻め込まれ、逃げ出す時に、持ち切れない貴重品を畑に埋めて隠したのです。その後、本人は帰国できず、別の人が農作業中に、畑に隠されている宝を見つけることが少なからずあったようです。お宝発見!でも、自分に所有権はありません。それで、持ち物を売り払って、その畑を買うのです。「天の国」とはそれほど価値あるものだと主イエスは言います。
 持ち物をすっかり売り払ってまで手に入れたい「宝」って何でしょうか?皆さんは、そこまでして手に入れたいモノって思い浮かびますか?パウロにはそれがありました。
 3度目の伝道の旅の帰り路、パウロは聖地エルサレムに上りました。けれども、パウロは命を狙われる危険がありました。あいつはユダヤ人の“魂”とも言うべき律法をないがしろにしている!しかも、エルサレム神殿の境内に、入ってはいけない異邦人を連れ込んだ!神殿を汚し、神を冒瀆(ぼうとく)した!先入観と偏見から決めつけ、誤解したユダヤ人たちにパウロは捕らえられ、リンチを受けて殺されかかりました。けれども、駆けつけたローマ帝国の守備隊によって救い出され、守備隊の兵舎に連行されます。その途中で、パウロは守備隊長の許可をもらい、ユダヤ人たちに語りかけるのです。
 自分は海外で生まれたユダヤ人だ。エルサレムで育ち、有名な律法学者であるガマリエル先生の下で、律法の厳しい教育を受けた。そして、熱心に神に仕えて来た。これらの血筋、エリートと言っていい教育歴、そして律法を熱心に守り、行う生活は、パウロにとって「宝」でした。それによって神に愛され、救われると信じていたからです。
 それらの「宝」を、教会とクリスチャンによって根こそぎ否定された、とパウロは感じたのです。ユダヤ人の血筋も、学歴も、律法の行いも関係ない。ただキリストの恵みを信じれば救われ、神に愛される。そのように宣(の)べ伝える教会に、パウロは激怒しました。人間、自分が大切にしているものを否定され、傷つけられたら、そりゃ怒りますよね。ユダヤ人の場合、その度合いが半端ではありません。だから、かつてのパウロも教会を迫害し、クリスチャンを捕らえ、処刑さえしたのです。
 ところが、それほどに大切な「宝」と思っていたものが、そうではなくなってしまったのです。どうしてそうなったか?それは次回6節以降の話になりますが、パウロは、後にフィリピの教会に書き送った手紙(3章7~9節)の中に書いています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。‥‥‥キリストのゆえにわたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」。
 パウロの中で、宝物が全く変わりました。血筋、学歴、行いを価値あるものと思い、それらを誇っていたパウロが、キリストの恵みこそ価値ある宝だと思い、キリストの恵みによって救われる人生に大きな喜びを見い出したのです。それこそ、持っているものをすっかり売り払って、今までの人生で手にしてきたものをすべて捨てて、それらを“代価”として、キリストの恵みによる救いの人生を手に入れたのです。これは、今までと同じ価値基準で、より価値のある宝を見つけたということではなく、何が宝物かを定める価値観そのものが全く変わったのだと言えます。血筋や、行いとその実績にこそ人としての価値があるという基準ではなく、それらに関係なく無条件に、人は愛され、生かされてこの世に“ある”存在なのだ、という基準への転嫁です。
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 血筋や財産、学歴や身分、行いと実績‥‥‥それらは私たちにとって、とても大きな魅力です。そういったものが単純に、私たちの人生にとってよろしくないとか、不必要だとは言いません。けれども、それらを手に入れることを第一にして生きていると、それ以外の大切なものを失う恐れがあります。もちろん、その人がそれで良いと言うのであれば、自分で決めた生き方ですから、何も言うことはありません。けれども、それによって時間を失い、健康を失い、人の信頼と友情を失い、家族の愛を失ってしまうとしたら、それは大きな人生の損失であり、不幸となるかも知れません。
 “階段を降りなさい”。ヘンリー・ナウェンという聖職者の、この一言で、銀行での出世の階段を下り、閑職(かんしょく)に、いや会社で人の心をケアする職務に変わった人がいました。彼は時間を失い、家族の愛と信頼を失い、家庭は滅茶苦茶、崩壊寸前でした。その時、彼はナーウェンの言葉と出会い、価値観と生き方を全く変えたのです。
 人の価値観と生き方はそれぞれです。でも、私は、神との関係、人との関係を大切し、その間にある愛と信頼を「宝」として生きていけたら、人はいちばん幸せなのではないか、と思うのです。

 

 

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