坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「どうしたらよいのでしょうか」

2022年9月11日 主日礼拝説教                          
聖 書 使徒言行録22章6~11節
説教者 山岡 創牧師
✞ 6「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。 7わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。 8『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。 9一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。 10『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。 11わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。


「どうしたらよいのでしょうか」
 どうしたらいいのだろう?私たちは毎日の生活の中で、この疑問にぶつかります。どうしよう?‥‥考える。‥‥こうしよう。‥‥行動する。そして解決する。次へ進む。そんな毎日を私たちは繰り返している、と言ってもよいでしょう。
 小さな問題なら、そのように解決しながら進むことができます。けれども、大きな問題になると、そんなにすぐには解決しない。時間がかかります。それが自分の力では解決できない困難となったら、越えられない壁になったら‥‥‥たぶん私たちはそれを“挫折(ざせつ)”と呼ぶのです。そして、どうしたらいいのだろう?という疑問を抱(かか)えたまま、その壁の前で途方に暮れることになります。
 自分の力では越えられない大きな壁。その壁の向こう側にどのようにして進むのか。よじ登って上を越すか、穴を掘って下をくぐるか。あるいは横を大きく迂回(うかい)するか、ぶち壊して進むか。それによって壁の向こう側に見える風景が全く違ってきます。
       *
 どうしたらいいのだろう?パウロも、この疑問の前に立ちすくみ、途方にくれました。彼はベニヤミン族出身の、生粋(きっすい)のユダヤ人。優秀な律法学者ガマリエルの下で律法(りっぽう)を学んだエリート。そして、律法を厳格に守り、熱心に行うファリサイ派。パウロはユダヤ教徒として神に愛される条件をすべて兼ね備えていました。
 そんなパウロは、聖地エルサレムで急速に増えて来た教会とクリスチャンに怒りを感じていました。エルサレムで十字架刑に処せられたような男が “復活された!神の子だ!”と言ってその弟子たちが宣(の)べ伝えている。しかも、この男の恵みを信じれば、血筋や学歴、律法の行いなんて関係ない。恵みと信仰によって神さまに愛していただける。救っていただける。そう言って、パウロや多くのユダヤ人が誇りとし、大切にして来たものを否定している。赦(ゆる)せん!神への冒涜(ぼうとく)だ!そう言ってパウロは、エルサレムの教会とクリスチャンを迫害する先頭に立ちました。エルサレムだけでは飽き足らず、ダマスコにある教会をも迫害し、クリスチャンを処罰するために出かけて行きました。
 ところが、ダマスコに到着する直前に、パウロに災難が降りかかります。「突然、天から強い光」(6節)に照らされて、「その光の輝きのために」、パウロは「目が見えなくなって」(11節)しまったのです。
 いったい何が起こったのでしょうか?聖書に記されている内容だけでは想像の域を出ません。ただ、「一緒にいた人々は、その光は見た」(9節)というのですから、それはだれの目にも明らかな具体的な現象であったと言うことができます。
 しかし他方で、パウロが聞いたという主イエスの「声」について、人々は「わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした」(9節)とパウロは語っています。つまり、光の出来事はだれにでも認識できる現象ですが、主イエスの声は、パウロだけがその心の中で聞いた、他の人には聞こえない“心の声”だったということです。言い換えれば、だれにでも見える、そしてだれにでも起こり得る人生の出来事を、どのような意味に受け取めるか、という別の問題、一人ひとりの意味付けがそこにあるわけです。
困難や不幸に見舞われると“罰が当たった”と言う人がいます。身に覚えがあるのでしょうか。あるいは、他人の不幸をそのように言う場合が多いかも知れません。パウロも言われたかも知れません。“罰が当たったのだ”と。ユダヤ教は因果応報思想です。良い行いをしたら神さまに救われる。悪い行いをしたら神さまに呪(のろ)われ、罰を受ける。
目が見えなくなった。それは神の罰だ。それを逆算して考えれば、パウロが律法を守らず、罪を犯した結果だ。だから神に呪われたのだ。周りはパウロをそのように決めつけたに違いありません。今まで行動を共にしてきた友人でさえ、そのようにパウロを見なし、“罪人(つみびと)”パウロとの交わりを断とうとしたかも知れません。
 けれども、律法を人一倍、厳格に、熱心に守って来たパウロにすれば“神の罰”とは考えられないことでした。どんなに考えても答えは出ません。“どうしたらいいのだろう?”。パウロは自分の人生に立ち塞(ふさ)がる壁の前で、真っ暗闇の中で、途方にくれました。
       *
 「どうしたらよいのでしょうか」(10節)。パウロは、主イエスに問いかけました。あれ?少し違う。‥‥最初から違うと思っていた、という人がおられると思います。実はそのとおりです。どうしたらいいのだろう?と「どうしたらよいのでしょう」はかなり違うのです。前者は、自分がぶつかっている問題や困難を、自分の力で、人間の力で、どのように解決したら良いかを考えている人の言葉です。解決できることもあるでしょうが、事によっては壁の前に立ち尽くすことになるかも知れません。他方、後者は、自分の力、人の力では解決困難な問題や苦しみに向き合った時、人の力を遙(はる)かに超える存在“神”に向かって、謙遜に尋ね、問い合わせている人の言葉です。人生のスタンスが全く違います。自分の力、人に力に頼る者と、神を信頼する者の違いであり、前者の言葉は“独り言”ですが、後者の言葉は“祈り”にほかなりません。神を信じる者が人生の壁にぶつかった時、最後に行きつくところはこの祈りなのです。
 何のために生きているのだろう。 何を喜びとしたよいのだろう。
  これからどうなるのだろう。‥‥    (『鈴のなる道』66頁、偕成社)
 口に絵筆を加えて、詩と草花を描く星野富弘さんの詩です。星野さんは24歳の時、高校の体育の授業中、跳び箱を使った前転宙返りの着地に失敗して首の骨を折り、全身が麻痺してしまいました。どんなにショックで、苦しく、悲しく、悔しかったか分かりません。突然降って湧いた巨大な壁を前にして、“どうしたらいいのだろう?”と途方に暮れる星野さんの気持、不安が、先ほどの詩の言葉に表わされています。信じられるもののない、不安な独り言です。
 でも、星野富弘さんは、聖書を通して神と出会い、信仰を与えられ、人生のスタンスが変えられます。そんな星野さんの信仰の言葉が、詩の後半に描かれています。
  その時 私の横に あなたが 一枝の花を置いてくれた。
  力をぬいて 重みのままに咲いている 美しい花だった。
 星野富弘さんの姿勢は、どうしたらいいのだろう?から「主よ、どうすればよいのでしょう」という祈りに変えられたのだと思います。時間は必要だったかも知れません。でも、その時、主イエスから、その答えが、花を通して示されたのです。パウロも、自分の力、自分の行いを誇る思いから、「主よ、どうすればよいのでしょうか」と主を頼み、主にゆだねる信仰へと変えられたのでしょう。そのように祈る人には、パウロにも、私たちにも、主はきっとその答えを用意してくださっています。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム