坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神が備えてくださる出会い」

2022年9月18日 主日礼拝説教                         
聖 書 使徒言行録22章12~16節
説教者 山岡 創牧師

✞ 12ダマスコにはアナニアという人がいました。律法(りっぽう)に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。 13この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。 14アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心(みこころ)を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。 15あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。 16今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱(とな)え、洗礼(せんれい)を受けて罪を洗い清めなさい。』」


  「神が備えてくださる出会い」
 ダマスコへ。パウロは導かれました。当初、パウロはダマスコへ、教会を迫害し、クリスチャンを縛り上げ、エルサレムに連行する目的で向かっていました。ところが、ダマスコに到着する直前、「突然、天から強い光」(6節)に照らされて、パウロ「目が見えなくなって」(11節)しまったことが直前の箇所で語られています。
 失明してしまったのでは、もはや当初の目的を実行することはできません。それどころではないのです。一刻も早くエルサレムに戻って治療したい。療養したい。そのようにパウロは考えたかも知れません。
 パウロはダマスコに行く目的を失いました。けれども、「主よ、どうすればよいでしょうか」(10節)と祈り、尋ねた時、主イエスは次のように示されました。「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」(10節)と。それは目が見えなくなった自分の現実を受け入れ、背負うということだったと思います。
 嫌なこと、面倒なこと、苦しいことからは逃げたいと思うのが私たちの正直な気持でしょう。あれこれ考え、もっともらしい理由をつけて、私たちは、逃げ出す自分を正当化し、弁護します。もちろん、逃げて良い時もあるでしょうし、逃げることで平安になれる場合もあるでしょう。けれども、どんなに嫌でも、面倒でも、苦しくても、私たちの人生には逃げてはならない事があると思います。逃げたい。でも、逃げるとかえって、余計に面倒になること、もっと苦しくなる現実があります。腹をくくり、逃げずに向かい合い、引き受けて生きる。そうすることによって暗闇から明るい方向に開かれていく人生があります。逃げずに進む。しなければならないことは、すべてその先で知らされる。主イエスパウロを、そのように導こうとされたのではないでしょうか。
       *
 パウロは、「一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました」(11節)。なんでパウロの身にこんなことが起こったのだろうか?パウロと一緒にいた人たちはヒソヒソと噂したかも知れません。ユダヤ教は因果応報思想(いんがおうほうしそう)です。良い行いをしたら神さまに祝福される。悪い行いをしたら神さまに呪われ、罰を受ける。失明、あれは神の呪いだ、罰だ。きっとパウロは何かしら律法に違反し、罪を犯したのに違いない。やつは罪人(つみびと)なのだ。どんな罪なのかは分からないが、失明したという事実が、その動かぬ証拠だ。
一緒にいた人たちは、決して優しかったわけではないと思います。むしろ彼らはパウロと同じ、律法を厳格に守るユダヤ教徒です。だから、彼らはパウロ失明の現実を目の当たりにして、そのように噂し、ジャッジしたかも知れない。そして、厳格なユダヤ教徒は、罪人と交わりを断ち、遠ざかろうとします。だから、彼らはダマスコに入ってから、パウロとの関わりをできるだけ避けようとしていたかも知れません。そうだとすれば、パウロは今まで“仲間”と思っていた人々から見捨てられ、深い孤独に陥っていたのではないでしょうか。そして、深い闇の中で、自分は人一倍、厳格に、熱心に律法を守って来たのに、なぜ?と答えの出ない現実に途方に暮れていたのではないでしょうか。
そんなパウロのもとに、今まで何の縁もゆかりもなかったアナニアという人物が現れます。彼は、ダマスコに住む信仰深いクリスチャンで、使徒言行録9章によれば、主イエスによって、パウロを訪ね、主の御心を語るようにと遣(つか)わされた人でした。一緒にいた人たちからは罪人だと見捨てられ、ダマスコのクリスチャンたちからは、彼は迫害者だと恐れられ、だれも寄り付かなかったパウロに、アナニアは寄り添いました。そして、パウロのことを“罪人”だとジャッジし、決めつけるのではなく、あなたにも神が備えてくださっている人生の善い目的がある。それは、目の見えなくなったあなたのことを愛してやまない主イエスの恵みを証しする「証人」(15節)になることだ、と神の御心を語り聞かせてくれたのです。その時、パウロは目が見えるようになったのです。
     *
 話は変わりますが、我が家では、8月末から、私も含めて立て続けに4人がコロナ陽性となりました。皆さまには大変なご迷惑とご心配をおかけしました。4人合わせて約2週間の隔離生活が続きました。そして、発熱と頭痛、のどの痛み等から次第に回復していく中で暇を持て余している4人がはまったのが『ワンピース』という漫画でした。主人公のモンキー・D・ルフィという海賊(と言っても悪人ではなく冒険家)が仲間を集め、世界一の財宝ワンピースを探しに、海へ冒険の旅に出る、という内容です。
 マンガの話などして恐縮ですが、主人公ルフィの仲間でニコ・ロビンという女性が登場します。彼女は、オハラという、考古学研究の盛んな島に生まれ、8歳にして考古学者の資格試験に合格するような優秀な人物でした。でも、孤児で、また特殊な能力を持っていたため、周りからは“あいつは妖怪だ”と恐れられ、疎(うと)んじられていました。
 ところで、オハラの考古学者たちはポーネグリフという古代文字を研究していました。けれども、その古代文字は世界を滅ぼす兵器を復活させると言われ、世界政府はその研究を禁じていました。やがて、秘かに研究していたことが政府に知られ、政府は、考古学者たちを滅ぼそうとして、軍艦10隻(そう)を派遣し、オハラの島全域に砲撃を加えます。8歳だったニコ・ロビンも古代文字が読める考古学者ということで、抹殺(まっさつ)の対象にされます。けれども、その時、軍を裏切って、偶然この島に流れ着き、ロビンと友だちになっていたサウロ中将が彼女を海へ逃がそうとします。けれども、彼女はサウロに叫びます。
 やだ!海には誰もいないよ!
すると、サウロ中将が答えます。
  よく聞け、ロビン‥‥今は一人だけどもよ、いつか必ず“仲間”に会えるでよ!
  海は広いんだで、いつか必ず!お前を守ってくれる“仲間”が現れる!
  この世に生まれて一人ぼっちなんて事は絶対にないんだで!!
  走れ、ロビン!‥‥どこかの海で必ず待っとる仲間に会いに行け!
  そいつらと、共に、生きろ!(『ワンピース』41巻180~182頁、尾田栄一郎著)
 その後、ニコ・ロビンは紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、ルフィと出会います。一度は世界政府に捕まり、連行されそうになりますが、世界政府と海軍に立てついてでも、命懸けでロビンを奪い返そうとするルフィとその仲間たちの姿に、彼女はサウロ中将の言葉を思い出すのです。今は一人だけどもよ、いつか必ず“仲間”に会えるでよ!
 「兄弟サウル、元どおり目が見えるようになりなさい」(13節)。そう呼びかけるアナニアの言葉で、サウロは「その人が見えるようにな」(13節)ります。でも、見えるようになったのはそういうことでしょうか。私は、疎んじられ、恐れられた自分に寄り添ってくれたアナニアのことが、パウロには、“迫害すべき敵”ではなく、神さまが備え、出会わせてくれた“仲間”に見えた、ということだと思うのです。そして、アナニアという仲間を通して、失明したパウロのことを愛してやまない神の恵みが見えるようになった、ということだと思うのです。
 私たちの人生は、いつ、どこで、どうなるか分かりません。けれども、神さまは、そんな私たちに必ず“仲間”を、“愛”を備えていてくださいます。信仰を持てば、それがきっと見えるようになります。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム