坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「人生の新しい目的」

2022年9月25日 主日礼拝説教                         
聖 書 使徒言行録22章17~21節
説教者 山岡 創牧師

 17「さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、 18主にお会いしたのです。主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』 19わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭(むち)で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。 20また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』 21すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣(つか)わすのだ。』」


「人生の新しい目的」
 「我を忘れた状態」(17節)。英語で言うと、エクスタシーの状態です。パウロは神殿で祈っていた時、そのような状態になりました。祈りの中で我を忘れたようになる。どんな状態なのでしょう?正直、よく分かりません。
 でも、こんな経験をしたことがあります。日常生活の中で、聖書を読み、黙想し、祈る時間を設けます。そして、目を閉じて祈りに集中していると、何だか自分が観覧車のコンパートメントのような閉じられた空間にいるような感覚になることがあります。コンパートメントよりもっと小さく、狭い空間に自分が座って祈っている。そして、向い側の席に、主イエスが、膝と膝がつきそうなぐらいの距離で座って、祈りを共にしてくださっている。そんなふうに感じたことが何度かあります。
 それが果たして聖書が言う「我を忘れた状態」なのかどうかは分かりません。でも、主イエスと向かい合っている気がする。お会いしている気がする。パウロも「我を忘れた状態」において主イエスにお会いしました。そして、「急げ、すぐエルサレムから出て行け」(18節)と告げられたのです。
       *
 なぜパウロはエルサレムから出ていかなければならないのでしょう?それは、パウロが主イエスの救いを証しするのを「人々が受け入れないから」(18節)です。受け入れないどころか、パウロに対して殺意さえ抱き、殺そうと企てているからです。それは、パウロが教会を迫害する者から主イエスを信じ、証しする者へと回心したからです。
 パウロは、クリスチャンたちを迫害する目的でダマスコへ向かう途中、失明しました。突然、天からの光に照らされて、彼は目が見えなくなります。けれども、失明がきっかけとなってパウロは回心し、変えられるのです。
 失明。パウロにとって思いがけない出来事でした。ユダヤ教は因果応報の信仰です。良い行いをしたら神さまに愛され、祝福される。悪い行いをしたら、神さまに呪われ、罰される、と考えます。自分は律法を人一倍、厳格に、熱心に守って、正しく生きて来た。それなのに、なぜこんなことが?パウロは失明の原因を問い続けましたが、答えは見つからなかったでしょう。
 そのように悩み続けるパウロのもとに、ダマスコに住んでいるアナニアというクリスチャンが訪ねて来ました。そして、この失明という出来事は神の罰でも呪いでもない。あなたはこの出来事を通して神に選ばれたのだ(14節)。それは、律法の行いによって神は人を愛するのではなく、どんな人のことも無条件に愛しておられること。失明したあなたのことも無条件に愛しておられることを、あなたが人々に伝え、証しする「証人」(15節)となるためなのだ。そのように神の御心と目的を、パウロに語り聞かせてくれたのです。パウロにしてみれば、天地がひっくり返ったかのような、人生が180度方向転換するかのような、価値観と生き方の大逆転だったでしょう。けれども、パウロはアナニアの言葉によって変えられます。そして、洗礼を受け、教会を迫害する者から、今度はキリストの救いを証しし、宣べ伝えるようになるのです。
 けれども、今までパウロと行動を共にし、クリスチャンを迫害してきたユダヤ人たちが納得するはずがありません。やつは裏切り者だ。神を冒涜する罪人だ。このままのさばらせておいたら、神の示しがつかない!パウロに激し怒りを感じたユダヤ人たちは、パウロを捕らえ、殺そうと企てました。しかし、その陰謀を知ったクリスチャンたちがエルサレムからパウロを逃がし、アジア州(現在のトルコ)にある故郷タルソスへ帰郷させるのです(使徒9章)。
 自分は神に選ばれ、主イエスの救いを証しするようにと召されたのに‥‥タルソスへ帰ったパウロは、主イエスの救いを証しすることができず、悶々として日々を過ごしていたかも知れません。
 ところで、かつて自分も関わったエルサレムでの教会迫害によって逃げたクリスチャンたちがアンティオキアという海外の町に教会を生み出します。そして、ユダヤ人だけではなく異邦人にもキリストの救いを宣べ伝えるようになります。そして数年後、パウロの回心を知る友人のバルナバが、彼を探しにタルソスへやって来ました。そしてキリストの救いを証しする教師としてパウロをアンティオキア教会に連れて帰るのです。パウロの異邦人伝道はここから始まります。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」(21節)。パウロが、異邦人に主イエスの救いを宣べ伝えるという新たな目的を示されたのはエルサレム神殿での祈りの時だったかも知れません。そして、この目的が実現したことを確信したのは、アンティオキア教会で、だったと思います。
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 私たちは人生の出来事の中で、人を通して神の御心を、言い換えれば自分の人生の意味と目的を示されることがあります。失明という出来事の中で、バルナバを通してパウロが感じたように人を通して、自分がこういう生き方へ、こういう目的へと“呼ばれている”と感じることがあります。
 カトリックのシスターで渡辺和子さんという方がおられました。彼女は太平洋戦争中、高校生の時に洗礼を受け、戦後、上智大学の事務職員として働くようになります。お世辞にも熱心とは言えない信仰生活をしていた渡辺さんでしたが、秘かに修道会に入会してシスターになろうかという思いが胸にくすぶっていました。その後、渡辺さんは27歳の時、休暇をもらい世界一周の旅に出ます。旅の目的の一つは、フランスのサン・モール修道会に滞在して、自分の胸の思いを試すためでした。そして滞在中、渡辺さんは新たにシスターになる若い女性たちの誓願式に出席します。フランス語は十分には分からない。でも、神父が説教の中で繰り返し語る言葉が心に残ったと言います。“イル・タッペル”。主があなたを呼んでいる、という意味の言葉です。その言葉が渡辺和子さんの心にリフレインのように響き続け、2年後、渡辺さんは周りの反対を押し切って、ノートルダム修道会に入会します。そして、入会して1年半後、思いがけなくアメリカの修道会に派遣されます。そこでの修練を終えて、ようやく年老いた母の住む東京に戻れると思いきや、今度はアメリカの大学で教育学の博士号を取るようにと命じられます。3年間必死に勉強して博士号を取り、帰国すると、岡山にあるノートルダム清心女子大学への赴任を命じられ、その1年後に学長が急死したのを機に、36歳にして学長になるようにと命じられるのです。
 正直、辛いことも逃げ出したくなることもあったといいます。けれども、そのように修道会に命じられて動くたびに、渡辺和子さんが感じていたことは、人の思いと言葉を通して、“イル・タッペル”、主が呼んでいる、主がこの目的のために自分を召しているということだったといいます。
 パウロも、アナニアを通して、バルナバを通して、主が私を呼んでいると、主が異邦人伝道の目的のために自分を召していると感じ、受け止めました。私たちも神さまを信じて生きる時、人生の出来事の中に、そこで関わる人の思いと言葉の中に、主イエスが自分を呼び、自分の人生に大切な意味と新しい目的を備えてくださっていることがきっと見えてきます。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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