坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「あなたはどこの市民ですか?」

2022年10月2日 主日礼拝説教

聖 書 使徒言行録22章22~29節

説教者 山岡 創牧師

 ◆パウロと千人隊長 22パウロの話をここまで聞いた人々は、声を張り上げて言った。「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない。」23彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らすほどだったので、24千人隊長はパウロを兵営に入れるように命じ、人々がどうしてこれほどパウロに対してわめき立てるのかを知るため、鞭(むち)で打ちたたいて調べるようにと言った。25パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛(しば)ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」26これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」27千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。28千人隊長が、「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言うと、パウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言った。29そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。


「あなたはどこの市民ですか?」
ローマの市民権。一体どんな権利が保障されているのでしょうか?例えば、ローマ帝国の官職に就任するための選挙権と被選挙権、婚姻権、所有権、裁判権とその控訴権、帝国の兵士になる権利等が保障されていました。また、人頭税や属州民税もローマ市民は免除されていたそうです。
 「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」(25節)。パウロが鞭で打たれそうになった時、ローマ軍の隊長に要求したものは、ローマ市民に保障された裁判権でした。
       *
 どうしてパウロは鞭で打たれそうになったのでしょうか?それは、ユダヤ人たちがパウロのことを訴え、殺そうとさえするその理由が、千人隊長には分からなかったからです。そのために、隊長はパウロを鞭で打ってその理由を取り調べようとしました。
 “やつは神殿を汚し、神を冒瀆(ぼうとく)した”。パウロはエルサレム神殿にいた時、海外から参拝にやって来たユダヤ人たちに誤解されました。そして、ユダヤ人たちはパウロを神殿の境内から引きずり出し、リンチで殺そうとしたのです。そこへ、騒ぎを聞きつけたローマの守備隊がやって来て、パウロを保護します。そして、パウロを兵舎へ連れて行こうとした時、パウロが、千人隊長の許可をもらって、ユダヤ人民衆に話し始めたのです。
 自分は律法に熱心なユダヤ教徒として教会を迫害していたこと。エルサレムからダマスコへ、クリスチャンを迫害しに行く途中で失明したこと。失明をきっかけに回心し、主イエスの救いを宣べ伝えるようになったこと。そして、自分が回心したことがユダヤ人の反発を買った時、主イエスから「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣(つか)わすのだ」(21節)と言われ、異邦人伝道の使命を託されたこと‥‥‥。
 そこまで話した時、人々は、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」(22節)と騒ぎ出したのです。どうして人々は激怒(げきど)して騒ぎ出したのでしょうか?
 ユダヤ人が赦(ゆる)せないと激怒することが二つあります。一つは、ユダヤ教の律法を軽んじ、神殿を冒涜するような言動です。もちろん、彼らの自己本位な基準と見方なのですが、そのために同じユダヤ人でありながら教会とクリスチャンは迫害されました。
 そして、もう一つは異邦人を認めるような言動です。ユダヤ人にとって、律法を守らない異邦人は、彼らの信じる神に嫌(きら)われ、呪われる存在でした。だから、異邦人が神に救われることなど、あり得ないのです。ところが、パウロは異邦人に救いを伝えるようにと神さまに命じられたと言う。“そんなこと、神さまが言うはずがない!”。これはユダヤ人からすれば、聞き捨てならない暴言であり、神への冒涜でした。
 そのようなユダヤ人の信仰と価値観が分からず、千人隊長はパウロを鞭打って取り調べようとしたのですが、その時パウロが「ローマ帝国の市民権を持つ者」(25節)という、千人隊長も恐れる“切り札”を出した、というわけです。
       *
 ところで、クリスチャンは市民権を2つ持っていると思います。一つは地上の国に保障された市民権。日本人であれば、日本国憲法で保障された権利です。そして、もう一つはクリスチャンとしての“天国の市民権”です。
 フィリピの信徒への手紙3章21節には「わたしたちの本国は天にあります」と記されています。であるならば、私たちは今、天国から地上の国にやって来て滞在中ということになります。あるいは旅行中と言ってもよし、留学中と言ってもよいでしょう。そのあたりのことをヘブライ人への手紙11章では、「仮住まい」(13節)と表現しています。そして、地上で仮住まいの生活を送る者は、「天の故郷」(16節)を熱望しながら歩んでいると言うのです。そんなふうに考えたことは皆さん、あるでしょうか?
 天国の市民権って、どんな権利なのしょう?聖書の内容から想像すると、まず思い浮かぶのは、平和に暮らす権利。それから永遠に生きる権利、すべてを理解する知恵を得る権利、楽しく過ごす権利、愛する人と再会する権利‥‥そういった権利が思い浮かびます。そして天国は、すべての人がだれでも入国する権利が保障されています。元々、自分の本国であり、故郷なのですから。
 ただし、一度出国していますから、再び入るには入国手続きが必要です。それは、天国の王子がイエス・キリストであることを認め、自分の主と仰ぎ、この方が自分のことを愛してくださることを信じて、洗礼を受けることです。洗礼は、天国に帰り、入国するためのパスポート、別の言い方をすれば、前売り券を手に入れることです。
 ある方が、自分の夫が召される前に病床で洗礼を受けた。でも、聖書も信仰もほとんど分からないままの洗礼だったので、夫は果たして天国にいるのだろうか?もしかしたらいないのではないか、とちょっと不安になった、とお話されました。
 その気持が分からないではありません。けれども、洗礼を受けたということは紛(まぎ)れもない事実であり、それは変わることのない神さまとの契約、無くなることのない入国許可証です。この権利は決して、聖書の知識の量や信仰生活の経歴、年数の問題ではありません。深くは分からない。でも、信じて洗礼を受けた。それでOKなのです。天国に入ってから、きっと多くの神の恵みを、愛を、お知りになっているに違いありません。
 また、地上の人生において、前売り券を手に入れなかった人にも、入国のチャンスがあります。それは、天国の入口で、主イエス・キリストの入国審査を受けることです。言い換えれば、天国の裁判権、神の裁きを受ける権利を行使することです。裁(さば)きと言えば、有罪判決を受け、罰(ばっ)されるようなイメージがありますが、違います。それは、神の愛に基(もと)づいた入国審査だと私は信じています。審査基準はただ一つ、“自分の思い違いや過ちを悔(く)い改(あらた)めて、キリストの赦しと救いを信じるか?”。その問いかけに、“はい、悔い改めて信じます”と答えれば、天国に入ることが許可されます。
 天国は聖書の中で、パーティー会場や壮大な賛美のコンサート劇場のイメージで、あるいは神の光によって明るく照らされた、宝石と黄金の都に譬えられて描かれています。そこでは、すべてを理解し、平和に、楽しく、永遠に暮らす権利が保障されています。神の愛によって保障されています。天国は言わば、究極の“愛の国”なのです。
       *
 今日は午後、8月に召されたTさんの納骨式を、地産霊園の教会墓地で行います。Tさんの体は塵(ちり)と灰に返りました。そのご遺骨は、教会墓地に納めます。けれども、Tさんの霊は、本国であり、故郷である天国に帰り、既に入国されています。愛する三女のYさんや多くの友人たちと再会し、慰(なぐさ)められ、また教会の愛餐会(あいさんかい)を盛り上げたあの調子で、天国のパーティーをも盛り上げておられることでしょう。地上の墓地は、そこに立って心を天に向け、天国の市民権とその希望を改めて確認するための場所なのです。私たちクリスチャンは、天国の市民です。その信仰こそ、地上の死と別れを意識する時、また死を迎える時、何よりも強力な魂(たましい)の支えとなり、希望となるのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム