坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「賢さと素直さ」

2022年10月9日 主日礼拝説教

聖 書 使徒言行録23章1~11節

説教者 山岡 創牧師

 

1そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」2すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。3パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁(さば)くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」4近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。5パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」6パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」7パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。8サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。9そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。10こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂(さ)かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。11その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証(あか)ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

「賢さと素直さ」
 「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」(3節)。千人隊長は、「なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い」(22章30節)、ユダヤ人に最高法院という裁判を開かせました。その席で、パウロが発言を始めた時、議長であり裁判長である大祭司アナニアは、パウロの口を打て!と部下に命じました。その命令を聞いたパウロが、アナニアに向かって言った言葉が「白く塗った壁よ」です。
 上の立場の者、権力を持つ者が、その力を利用して、筋の通らない理不尽なことを言ったり、したりしているのを見ると、批判し、抵抗したくなる。私は子どもの頃からそういう傾向がありました。どうやらパウロも、そういう性格のようです。しかも、その非難は毒舌です。こんな毒舌、さすがに私は吐(は)けません。その点、パウロより私の方がお人好しです。ユダヤ人は激情的なのですね。
 主イエスも、ユダヤ人の権力者、主流派に対しては、かなり毒舌でした。主イエスは、今日の聖書箇所にも出て来たサドカイ派やファリサイ派、そして律法学者たちを厳しく非難しています。そのような非難の中で、主イエスが彼らのことを偽善者(ぎぜんしゃ)という意味で、「白く塗った墓」(マタイ23章27節)と非難しているシーンがあります。それは、外側は美しく、正しいように見えるが、内側は偽善と律法に背く汚れで満ちている、という非難です。「白く塗った壁よ」、パウロがアナニアに言った言葉も同じでしょう。
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 ところが、裁判の席上にいた人々が、「神の大祭司をののしる気か」(4節)とパウロを責めました。アナニアは、神殿税を着服するような人物ですが、曲がりなりにも神さまに選ばれ、立てられた大祭司です。「その人が大祭司だとは知りませんでした」(5節)。パウロは、彼らの批判を、すっとぼけて巧(たく)みにかわしました。知らないだと?嘘つけ!‥‥アナニアは議長席に座っていたはずですから、パウロが知らなかったはずはありません。それなのに平気でとぼけて、いなしている。何ともしたたかです。
 したたか、と言うならば、その後の発言もそうでしょう。パウロは、「議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って」(6節)「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱(いだ)いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」(6節)と発言しました。
 確かに嘘ではありません。パウロは、イエスが復活し、今も霊によって生きて働いていることを味わい、復活をもってイエスを神の子、救い主キリストと信じているのです。主イエスを信じれば、その愛によって自分たちも復活の希望を約束され、永遠の命に生きることができる、と宣(の)べ伝えているのです。その意味では、確かに「死者が復活するという望みを抱いている」と言っても間違いではありません。
 けれども、この発言、もちろん何も考えずに、自分の信仰の内容をそのまま言ったわけではありません。こう言えば、それぞれの信仰の主張から、両派の間に論争が生じ、分裂し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなることを、従って自分を裁(さば)くどころではなくなることをパウロはちゃんと計算していたのです。
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 主イエスが、弟子たちを、救いの伝道のために、人々のもとに遣(つか)わすにあたって、諭(さと)された言葉を思い起こします。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢(かしこ)く、鳩のように素直であれ」(マタイ10章16節)。この世は狼の群れのようなものだ。相手を出し抜き、自分の利得を得るためには相手を食い殺すような残忍さがある。決して優しく、温かい社会ではない。そんなところに、羊のように善良な者を送り込めば、一発で食われてしまう。だから、蛇のように賢くあれ、と主イエスは言うのです。
 蛇と言えば、エデンの園に現れて、アダムとエヴァを巧みに誘惑し、禁じられていた知恵の木の実を食べさせた物語を思い起こします。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3章1節)と記されています。
 蛇のように賢く。クリスチャンと言えば、善良で、清く、正しく、美しく、自己犠牲的であるようなイメージがあります。もちろん私たちは人を愛することにおいて、そうでありたいと思います。けれども、理不尽に自分を陥(おとしい)れようとする相手に対して、身勝手な利益のために自分たちを食い物にしようとする相手に対して、そのまま食われる必要はありません。もちろん、「だれに対しても悪に悪を返さず」(ローマ12章17節)とパウロも言っているように、逆に相手を落とし入れて不要な損害を与えたり、自分の利益だけを考えて相手を負かしたりするのはどうかと思います。しかし、相手の悪意をいなしたり、相手の不当な仕打ちや理不尽な企てをかわすために、負けないために、クリスチャンは賢く振る舞ってよいのです。
 例えば、アメリカで黒人の公民権を獲得するために尽力したマルチン・ルーサー・キング牧師は、バスに乗る時に黒人が白人から不当な差別を受けていることに対して、泣き寝入りはしませんでした。黒人の人々に呼びかけて、バスに乗ることを黒人が全面的にボイコットする運動を起こしたのです。やがてバスに乗車する上で、黒人は白人と同じ権利を獲得したのです。言うなればパウロは、そういう賢さを持っている人でした。
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 けれども、それだけではありません。「鳩のように素直であれ」と主イエスは言われます。最近、独りで祈る時に“素直に生きることができるように”という祈りを加えています。素直に生きることは、いちばん難しいことかも知れない、と最近よく思います。自分の凝り固まった考えや変なプライド、片意地が、素直に生きることを邪魔するのです。素直に生きるためには、先入観や偏見、片意地や決めつけを捨てて、相手の言葉を無心に、心を開いて聞くことが必要だと思います。特に、クリスチャンの場合は、神に対して素直になることであり、それは神の言葉をまっすぐに聞くことではないでしょうか。信仰とは、神の言葉を聞く素直さです。
 裁判があった日の夜、主イエスの言葉がパウロに臨(のぞ)みました。「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(11節)。かつてパウロは、律法を守ることでうぬぼれ、独善的に生きていました。けれども、そのような生き方が失明という出来事によって打ち砕(くだ)かれ、悔(く)い改めたことによって神の言葉を聞く素直さが生まれました。神の言葉を素直に聞く。素直に従う。そこに「勇気」が生まれます。自分の力や正義から来る勇気ではなく、神さまに、主イエスに愛されている喜びと平安から生まれる勇気です。“生かされている”と信じる人の勇気です。
 クリスチャンの生き方は、この世に対しては賢く、神さまに対しては素直に、です。そのスタンスから、生きる勇気が湧(わ)いてきます。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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