坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「偽善・神を見ていない信仰」

2022年10月16日 主日礼拝説教

聖 書 使徒言行録23章12~22節

説教者 山岡 創牧師

パウロ暗殺の陰謀 12夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀(いんぼう)をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。13このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。14彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。15ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを整(ととの)えています。」16しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。17それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」18そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行き、こう言った。「囚人パウロがわたしを呼んで、この若者をこちらに連れて来るようにと頼みました。何か話したいことがあるそうです。」19千人隊長は、若者の手を取って人のいない所へ行き、「知らせたいこととは何か」と尋ねた。20若者は言った。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。21どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです。」22そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」と命じて、若者を帰した。

「偽善・神を見ていない信仰」
 私たちの教会に、Mさんという方がおられました。今年3月に、100歳で天に召されたM.Tさんの夫だった方です。Mさんは、各地で判事や裁判所所長を務め、退官後は弁護士として、法曹界で長きに渡り働かれました。そして晩年、お二人で川越市にあるケアハウス主の園に入居され、そこで毎朝行われる平日礼拝のご縁で坂戸いずみ教会に出席されるようになり、2004年1月に転入会されました。教会が会堂建築の真っただ中にある時でした。共に教会生活を送ったのはわずかに2年余り、2005年11月に、96歳で天に召されました。共に過ごした時間は短かったですけれど、とても強い印象を残された方の一人です。
 そのMさんが、会報『流れのほとり』に信仰生活の証(あか)しを書いてくださいました。Mさんが東京大学の法学部を卒業して、大阪地裁に配属された頃の話です。ある日、裁判官の懇親会をすることになり、酒の席で、Mさんは指導を受けていた裁判官から“M、飲め”と杯を差し出されました。“飲めません”とMさんは断りました。すると“お前はクリスチャンか?”と聞かれ、“そうです”と答えると、その指導裁判官の方は杯(さかずき)を引っ込めてくれた‥‥のですが、横で寝転んでいた若い裁判官から“クリスチャンの偽善者(ぎぜんしゃ)”と怒鳴られたそうです。Mさんは“故(ゆえ)なく偽善者と言われて小さくなっているクリスチャンではない。バカにするな”と腹が立ったそうですが、同期の仲間たちが止めてくれたので、喧嘩沙汰(けんかざた)にはならずに済んだ、と述懐(じゅっかい)されています。
 誤解のないように言いますが、クリスチャンは酒を飲んではいけない、とは聖書に書かれていません。ただMさんは学生時代、救世軍という生活態度に厳(きび)しいキリスト教の宗派で信仰の訓練を受けておられたので、お酒は飲まないと心に誓(ちか)っておられたのでしょう。そういう態度を偽善者とののしられた。もしMさんが、本当は飲みたいのに、あるいは家では飲んでいるのに、クリスチャンのポーズを取って“飲めません”と言ったのだとしたら、確かにそれは偽善でしょう。でも、そうではなかったと思います。神さまに対して真剣に、誠実に歩もうとしていた信仰が証しから伝わってきます。だから、酒を飲まない信仰のポリシーを偽善だとバカにされたことにカチンと来たのでしょう。
 今日の聖書の御言葉を黙想しながら、ふとMさんのことが思い浮かびました。そのようなMさんですが、では神さまを前にして、自分は常にまじめで正しい、偽善など少しもないと、うぬぼれていたわけではないと思います。特に、人を裁(さば)く裁判官として、神さまが自分の心を見ておられることを意識しながら、自分を厳しく見つめ直しながら、その重責を担っておられただろうと思うのです。信仰を持って生きるということは、自分の意識から神さまを追い出したら、すべてが偽善、独善になってしまうからです。
       *
 最高法院の裁判において、パウロの発言により、議員は2派に分裂し、その議論が激しくなりました。そのため千人隊長はパウロを議員たちの間から力ずくで引き出し、兵営で保護します。それでパウロの裁判は判決の出ないまま終わりました。
 けれども、何としてもパウロを排除しようと念じている人々は納得がいきません。彼らは誓いを立て、パウロを暗殺する陰謀を企てます。もう一度、裁判を開くと言って、パウロを兵営から引き出して、その途中で殺してしまおうと企てたのです。
 しかし、その陰謀はパウロの甥(おい)の知るところとなり、千人隊長に内密に通報されることとなりました。その陰謀を知った隊長は、自分の上司であるユダヤ総督フェリクスのもとにパウロを護送することにし、パウロ暗殺の陰謀は未遂(みすい)に終わります。
 人を暗殺する陰謀を企(くわだ)てる。彼らの信仰って、いったい何なのでしょうか?どんな理由であれ人を殺すことは、神さまに対する罪にはならないのでしょうか?
 ユダヤ人が重んじる律法には、その基本である十戒に「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)と定められています。神さまが人にお与えになった命を、人が奪ってはならないのです。もちろん、彼らはこの掟(おきて)を知っています。
 けれども、律法には死罪の掟も定められています。その中の一つとして、神を冒瀆(ぼうとく)した者は死罪とレビ記24章に定められています。冒涜とは何か?具体的にはっきりと規定されてはいません。けれども、律法の意を汲み、掟を杓子定規には守らず、ご自分を神と等しい者とした主イエスは、冒瀆の罪で十字架に架けられました。そして、その主イエスを信じるクリスチャンは、神殿を軽んじ、律法をないがしろにするという冒瀆の罪で迫害されました。パウロもかつては教会とクリスチャンを激しく迫害していましたが、主イエスと出会い、回心してクリスチャンとなり、主イエスの救いを宣(の)べ伝えるようになりました。その心変りが、彼らとしては神への冒涜であり、赦すことのできない罪として死罪に当たると考えているのです。裁判を経て、判決を待つまでもなく、分かり切っていることだと彼らは心の中でパウロを裁いています。だから、彼らは自分が罪を犯しているとは、これっぽっちも思わなかったでしょう。むしろ、冒涜者を排除するのですから、自分たちは律法に照らして、神に対して正しい、神の御心に適っていると信じていたでしょう。彼らは、自分を正しい裁判者だと思い込んでいるのです。もし、それをしも信仰と言うのなら、それは“神を見ていない信仰”と言わざるを得ません。
       *
 主イエスは、「人を裁くな。自分が裁かれないためである」(マタイ7章1節)と教えました。それは、自分の目の中にある丸太が見えていないのに、他人の目の中にあるおが屑のような罪を裁くことなどできないからです。「まず自分の目から丸太を取り除け」(7章5節)。それをせずに裁くなら、それは偽善だと主イエスは言われるのです。
 確かに、自分自身を省みても、他人の非はどんなに小さくても気づくのに、自分の非はどんなに大きくても気づかなかったり、認めなかったり、ごまかしたりするところが私たちにはあるのではないでしょうか。どうしてなのでしょう。
「人を裁くな」と言われた主イエスは、その直前で「偽善」とは何かをお教(おし)えになりました。施(ほどこ)しにしろ、祈りにしろ、断食にしろ、人目を意識し、人にほめられようとして行うなら、それは偽善だと主は言われます。それは、隠れたところにいて、隠れたことを見ておられる神を意識していない行為、神を見ていない信仰だからです。
聖書を読み、祈ってもいる。自分では神さまの御心に適(かな)い、正しく振る舞っていると思っている。けれども、いつの間にか神さまが見えなくなっていることがあります。自分の独善的な考えが自分の内側に充満し、支配して、神さまが追い出されています。だからこそ、人を裁く時、人を判断する時は、立ち止まり、一歩退き、できるだけ慎重でなければなりません。いや、私たちは人を裁いてはならない、決めつけてはならないのでしょう。丸太が見えていないかも知れないと自分を疑うこと。人を裁かず、決めつけないこと。神の愛と赦しを思い、そのように謙遜(けんそん)な生き方を心がけたいと願います。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム