坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「ウィルスか、ワクチンか」

2022年10月30日 主日礼拝説教

聖 書 使徒言行録24章1~9節

説教者 山岡 創牧師
◆パウロ、フェリクスの前で訴えられる 1五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督(そうとく)にパウロを訴え出た。2-3パウロが呼び出されると、テルティロは告発を始めた。「フェリクス閣下、閣下のお陰で、私どもは十分に平和を享受(きょうじゅ)しております。また、閣下の御配慮(ごはいりょ)によって、いろいろな改革がこの国で進められています。私どもは、あらゆる面で、至るところで、このことを認めて称賛(しょうさん)申し上げ、また心から感謝しているしだいです。4さて、これ以上御迷惑(ごめいわく)にならないよう手短に申し上げます。御寛容(ごかんよう)をもってお聞きください。5実は、この男は疫病(えきびょう)のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動(そうどう)を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者(しゅぼうしゃ)であります。6この男は神殿さえも汚(けが)そうとしましたので逮捕いたしました。8閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」9他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。

「ウィルスか、ワクチンか」
 1732。何の数字だと思いますか?これは、埼玉県内でコロナウィルスに感染した人が1週間で何人いるか、その合計人数を7日で割って1日当たりに平均した数です。ちなみに、これは10月28日時点での平均人数です。
今年に入って、埼玉県内のコロナ感染は8月初旬にピークを迎えました。平均が12000人を超えた日もあります。その後、次第に減少して10月半ばには1200名台まで、ピーク時の10分の1に下がりました。その時から半月で少しずつ増えています。11月から礼拝分散を解除して、みんなで共に守る礼拝に戻そうとしている私たちの教会としては、ちょっと心配になる数字です。これからクリスマスへかけて、年末年始にかけて、感染が再び拡大しないことを切に願います。
新型コロナウィルス感染症。これは一種の伝染病です。そして、急激に集団感染する伝染病のことを、古い言い方では“疫病”と呼ぶのだそうです。その意味では、新型コロナウィルス感染症も、一つの疫病だと言うことができます。
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「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間で騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります」(5節)。大祭司や長老たちに雇(やと)われた弁護士テルティロは、パウロのことをそのように、総督(そうとく)フェリクスに訴えました。「疫病のような人間」、ひどい言われようです。
9月の前半、我が家は立て続けに4人がコロナ陽性となりました。私も感染し、1週間の隔離生活を余儀なくされました。牧師館だけでは隔離しきれず、教会の部屋をお借りしました。礼拝を2回休み、皆さんには本当にご迷惑をおかけしました。
ところで、2階の踊り場に教会と牧師館を隔てているドアがあります。隔離され、療養している時に、そのドアからちょっとでも牧師館に入ろうものなら、とても嫌そうな目で見られ、追い立てられました。“人間ではなく、まるでウィルス扱いだな”‥‥その態度が分からないわけではありませんが、何もそこまで‥と思い、少し腹が立ちました。
 疫病のような人間、ウィルス扱い。パウロの場合、それはこの世にいない方がいい、と存在を否定されているのです。どうしてそこまで言われるのでしょうか?
 それは、パウロが宣(の)べ伝える主イエス・キリストを信じる人が、「世界中のユダヤ人の間に」急激に増えているからです。そしてその信じ方が、従来のユダヤ教の主流派の信じ方とは全く違うからです。簡単に言えば、“行い”か“恵み”か、という違いです。神の掟(おきて)である律法を守る行いによって救われる!と信じる者と、イエス・キリストの救いの恵みによって救われる!と信じる者の違いです。大祭司や長老たちはこの教えを、神に対する冒涜(ぼうとく)だ!と腹を立てました。しかも、この教えが伝統的な信仰を持つユダヤ人たちの間に広がり、回心してクリスチャンに鞍替えする者が続々と増えている。更に、この教えは異邦人の間にも広がっている。その人気と拡大っぷりが気に入らない大祭司や長老、ユダヤ教の主流派の人たちは、何としてもこの「ナザレ人の分派」を、その首謀者であるパウロを潰(つぶ)そうと考えたのです。彼らは、エルサレムでの裁判の後、パウロ暗殺の陰謀(いんぼう)さえ企(くわだ)てました。しかし、パウロが千人隊長に保護され、更(さら)に総督フェリクスのもとに送られたので、総督の裁判の席でパウロを訴える運(はこ)びとなったのです。
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 「疫病のような人間」。確かに、イエスを救い主キリストと信じる信仰は、まるで疫病のように、ウィルスのように、ユダヤ人と異邦人の間に広がりました。そしてあまりにもクリスチャンが増えることに脅威(きょうい)を感じて、ユダヤ人だけではなく、この後、ローマ皇帝さえも彼らを激しく迫害するようになっていくのです。
 けれども、疫病とは決定的に違う、とても大事な面があります。それは、信仰を受け入れる本人の意思がある、ということです。ウィルスは、感染したくなくても、感染し、広がります。けれども、信仰の場合はもちろん、そうではありません。主イエスの教えに救いを感じ、信じたい、信じようと思わなければ、この教えと信仰は決して広がらないのです。
 主イエスを信じたい。主イエスによって救われたい。その心の叫びが、魂(たましい)の必要が、世界中のユダヤ人の間に、そしてローマ帝国内の異邦人の間に、確かにあったのです。それは“人間扱い”されていなかったからです。社会から人間としての価値を認められず、自分でも人としての存在意義を感じることができなかったからです。
 ユダヤ人は、神の掟である律法を守ることによって救われると信じていました。言い換えれば、律法の行いによって人の値打ちが決まるという価値観です。そのためユダヤ教の主流派は、律法を守る生活を重んじると共に、律法を守らない者、守られない人を、罪人と呼び、神に救われず、価値のない存在と見なしました。そして、その生活態度は“罪と汚れ”として伝染すると信じ、無視し、差別し、距離を置きました。まるで“バイ菌扱い”のいじめ、まさに“ウィルス扱い”だったのです。
 そのように苦しみ、悲しむ人々に、主イエスは近づきました。彼らを罪人とは見なさず、あなたも神に愛され、救われる神の子だと伝え、食事をし、対話をし、病を癒(いや)し、その心を救いました。一言で言えば、それは“愛”の力でした。主イエスがもたらしたものはウィルスではなく、言わば愛という薬、愛という“ワクチン”だったのです。
 人の心には様々な理由で“穴”が空きます。悲しみ、苦しみ、悩みの穴。虚(むな)しさの穴、寂しさの穴です。その穴を満たし、埋めるものとはいったい何でしょう?その原因である問題が解決するに越したことありません。けれども、その穴が広く、深いほど問題は解決しづらいでしょうし、もはや解決できない、元には戻せない問題もあるでしょう。その穴を満たし、癒せるものがあるとしたら、それは“愛”ではないでしょうか。
私たちは、一人の人間として、ただ愛されたいのだと思います。私たちは、愛されているなら、たとえ原因を解決できないとしても、また社会の制度や価値観が改善されないとしても、私たちの魂は癒され、救われる。自分自身の“人間”としての値打ちを、プライドを、喜びを取り戻すことができるのではないでしょうか。
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 信仰は「疫病」ではなく、“愛の癒し”です。神の愛は、ウィルスではなく、ワクチンです。それは不確定なワクチンではなく、2千年間の臨床を経て、人の心を癒し、救い続けた、確かな薬です。私たちの人生には、苦しみ悲しみが繰り返し起こるでしょう。私たちの心には、一度ならず穴が開くことでしょう。辛(つら)いです。でも、神の愛というワクチンを心に接種した人には、苦しみ悲しみに対する抗体が、“魂の免疫(めんえき)”がきっと生まれます。それによって苦しみ悲しみが重症化せず、癒されていくでしょう。神の愛に招かれている私たちです。神の愛を信じ、受け止めて、歩みましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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