坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「天国を本国として」

2022年11月6日 永眠者記念礼拝説教         

聖 書 フィリピの信徒への手紙3章17~4章1節
説教者 山岡 創牧師

17兄弟たち、皆一緒にわたしに倣(なら)う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 18何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 19彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹(はら)を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 20しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 21キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑(いや)しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

1だから、わたしが愛し、慕(した)っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠(かんむり)である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

 

「天国を本国として」

 今、私たちの教会に子どもの頃から来ていた二人の大学生が海外に留学しています。つい先日、何人かの青年たちと相談し、協力して、国際小包を送りました。やはり日本食はおいしく、また恋しくなるらしく、カープラーメンやインスタントみそ汁、梅干しや粉末のだし、お菓子や珍味等を送りました。とても喜んでいました。

 一人の青年は、礼拝をライブ配信しているインスタグラムを視聴して、改めてこの教会は“自分が安心できる場所なんだ”と再確認したそうです。日本を離れ、自分が属していた集まりや親しくしていた人と離れ、未知の場所に行き、生活することには、だれしも不安を感じるに違いありません。それでも、自分には“帰れる場所”がある、「本国」があることを支えに、不慣れな土地でもがんばって生活し、学んでいることでしょう。

 聖書は、「しかし、私たちの本国は天にあります」(3章20節)と語りかけてきます。であるならば、そこは私たちにとって“帰れる場所”です。そして私たちは今、地上に“留学”している、とたとえて言ってもよいでしょう。本国を離れ、父なる神のもとを離れ、この地上で、私たちは不安な生活を送っているかも知れません。命の終わり、死を恐れながら、悲しみながら生活しているかも知れません。けれども、私たちには“帰る場所”がある。“再会の場所がある”と信じて生きることができたら、恐れと不安は和(やわ)らげられ、悲しみは慰(なぐさ)められ、希望を抱くことができるのではないでしょうか。

 本日は〈永眠者記念礼拝〉を迎えました。地上の生涯を終えた家族や友人、また教会の仲間を偲(しの)びながら、私たちは礼拝(れいはい)を守っています。これらの方々は本国である天に帰り、平安に安らぎ、また楽しく暮らしていると私たちは信じます。その恵みが、嘆(なげ)き悲しみを抱いておられる方々に、慰めとなり、希望となるように切に願います。

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 「わたしたちの本国は天にあります」。とは言え、私たちは自分の本国がどんなところだったのか忘れてしまって、記憶がありません。だから、そこがどんなにすてきな、愛と平和に満ちた場所だったかを知るために聖書の言葉を聞きます。

 イエス・キリストの救いを宣(の)べ伝えたパウロは、フィリピンの信徒たちに、そして私たちに語りかけます。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(19節)。自分の腹を神とする、というのは“自分”を第一に、自分の欲望を第一として生きているということでしょう。欲望に従い、自分の力で手に入れたものを誇りとし、それこそが幸せのすべてだと考えているのです。

 けれども、そのように考えて生きている人について、主イエスが語られたたとえ話を思い起こします。〈愚かな金持ち〉というたとえ(ルカ12章)です。ある金持ちの畑が豊作でした。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」‥‥そうだ!もっと大きな蔵を建てよう‥‥。そして、その蔵に穀物(こくもつ)や財産をすべて蓄(たくわ)えた金持ちは、これで何年も先まで安泰(あんたい)だ。左団扇(ひだりうちわ)で暮らせるぞと、ほくそ笑むのです。

 ところが、その夜、神さまが金持ちに「愚か者よ」と言われます。「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」!金持ちはうろたえ、目の前が真っ暗になったことでしょう。この世のことしか考えず、命の終わりを考えずに生きていると、“その時”を受け止めることができないのです。

 財産を蓄えること自体が悪いとは思いません。けれども、それが第一となり、すべてとなって、他の大切なことが見落とされているのでしょう。それに対して、しかし、わたしたちの本国は天にあります」と言われるのは、そのような生き方とは反対の生き方があり、それが天国に通じるような人生の歩みなのではないでしょうか。

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 そこで、もう一つ思い出す主イエスのたとえ話があります。〈金持ちとラザロ〉という話(ルカ16章)です。一人の金持ちがいて、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。その金持ちの門前には、ラザロという貧しく、病を負った人が横たわり、物乞(ものごい)いをしていました。でも、金持ちはラザロに、特に何も施(ほどこ)さなかったようです。やがて二人は死んで、ラザロは天国のパーティー会場に天使たちによって連れて行かれましたが、金持ちは地獄に行って、炎の中でもだえ苦しむことになります。金持ちがそこから見上げると、天にいるラザロの姿が見えました。そこで金持ちは、神さまに向かって、ラザロに水を持たせて、ここに来させてください、だの、生きている私の兄弟のところにラザロを送って、自分のようにならないようにと警告させてください、などと虫の良いことを頼むのです。死んでからも、まるで自分の方がラザロよりも偉い人間であるかのように思い上がっている態度です。そのやり取りの中で、神さまが金持ちに、「わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって」、渡ることができないのだ、と語っている言葉があります。金持ちよ、お前は天国のパーティー会場には来られないのだ、と言うのです。

 けれども、本当にそうでしょうか?神さまにできないことはないのです。天国と地獄の間にある大きな淵も取り去ることができるはずです。いや、この大きな淵をつくり出しているのは、金持ち自身ではないかと思うのです。生前、自分の腹を神として、隣人を愛さない生活を送っていた自分を省(かえり)み、悔い改めないのです。それどころか、炎にさいなまれながらなお、ラザロを自分よりも下に見て、使い走りか何かのように蔑(さげす)み、差別しているのです。そのような金持ちのことを神さまは試し、自分の非を認めて悔い改めるのを待っておられるのではないでしょうか。そして、そういう“愛のない自分”を悔い改めた時、自(おの)ずと大きな淵は消えてなくなる。言い方を変えれば、その大きな淵の間に橋を架(か)けて待っておられる主イエスの姿が見えるようになるのではないでしょうか。主イエスは、人を愛し、私たちを愛し、罪を赦(ゆる)し、十字架によって“救いの橋”を架け渡してくださっているのです。

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 主イエスを通して、私たちが愛した人たちは、本国である天に召されて行ったと信じます。生前、神さまを信じた人も、そうでなかった人も天国に召されたと信じています。生きている間に、主イエスとその神を信じ、洗礼(せんれい)を受けなければ、天国には入れない。そんなケチな神さまではないと私は信じています。洗礼とは言わば、天国に入るための“前売り券”のようなものです。ライブやコンサート等もそうですが、前売り券を持っていれば安心で、その日をワクワクしながら楽しみに待つことができます。

そして、当日券がちゃんとあります。主イエスが橋の向こう、天国の入口で当日券を売っています。代金は、悔い改めです。腹を神とし、愛の欠けていた自分を認め、愛がいちばんと信じること。そうすれば、主イエスは“愛の国”、愛が満ちあふれる天国に入れてくださるはずです。何せ、私たちみんなの本国なのですから。

私たちが愛した人たちはきっと、天国に入れられて、天のパーティー会場で楽しみ、安らかに憩(いこ)うていることでしょう。悔(く)い改めにタイム・リミットはありません。いつか私たちもそこに行けるように、愛する人と再会ができるように、“悔い改めと愛”を大切に歩んでいきましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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