坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神の今回」

2022年11月20日 主日礼拝説教                         
聖 書 使徒言行録24章24~27節
説教者 山岡 創牧師

24数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。 25しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。 26だが、パウロから金をもらおうとする下心(したごころ)もあったので、度々(たびたび)呼び出しては話し合っていた。
27さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任(ふにん)したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。

「神の今回」
 “自分には関係のない話だ”。フェリクスはそう思っていたかも知れません。「キリスト・イエスへの信仰について」(24節)、パウロの話を真剣に聞こうと思ってはいなかったのではないでしょうか。ただ「パウロから金をもらおうとする下心」(26節)から、パウロに接触する口実で、信仰の話を聞こうとしただけだったと思われます。
ところが、何とはなしに聞いていたその話に、フェリクスはギクリッと心をつかまれてしまったのです。パウロが「正義や節制や来たるべき裁きについて」(25節)話すと、彼は恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」(25節)と言って話を打ち切りました。
       *
 海外で異邦人(いほうじん)に主イエスの救いを宣べ伝えていたパウロは、エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたちが生活に困窮(こんきゅう)していることを耳にします。そこでパウロは、異邦人教会で献金を集め、「救援金を渡すため」(17節)、何年振りかでエルサレムに戻って来ました。そして神殿に参拝していた時に、「世界中のユダヤ人の間で騒動を引き起こし」(5節)、「神殿さえも汚(けが)そうと」(6節)したと誤解され、エルサレムでユダヤ人たちに殺されそうになります。それをローマの千人隊長リシアによって助け出され、総督フェリクスのもとに連れて行かれたのです。そこでパウロはユダヤ人たちから訴えられ、裁判を受けることになったのですが、フェリクスはその判決を保留にしました。
 表向きは、パウロにはだれも弁護人がいなかったので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って‥‥判決を下すことにする」(22節)と、フェリクスは判決を引き延ばしました。けれども、その本心は、パウロが多額の金を持っていると思い、彼に保釈金を要求するためでした。よく言えば保釈金ですが、たぶん“金を出せば、裁判で無罪判決を下し、釈放してやろう”と、言わば賄賂(わいろ)を、その後もやんわりとパウロに要求し続けたのではないでしょうか。そのような下心のある彼は、まずユダヤ人の妻ドルシラを出汁(だし)にして、パウロに近づこうとしたのでしょう。
ところが、真剣に聞く気もなかった話にフェリクスはギクリッとします。それは、身に覚えがあったからではないでしょうか。実は、ドルシラはヘロデ王家の血筋で、ある小さな国の王と結婚していました。ところが、彼女の美しさに魅せられたフェリクスが、ユダヤ人の魔術師に彼女を口説(くど)かせて離婚させ、自分が妻として娶(めと)ったと当時の歴史書に記録されています。そういう略奪婚のような行為が、自分の欲望を節制せず、神の正義に反するものとして、来たるべき裁きにおいて神に裁かれるとフェリクスは恐れを感じたのでしょう。たぶん他にも何かしら身に覚えがあったと思われます。
そのようにフェリクスの心は、神の言葉に迫(せま)られました。それはある意味で、悔い改めのチャンスでした。自分の罪を認め、心を入れ替えてやり直すチャンスだったのです。けれども、フェリクスは「今回はこれで帰ってよろしい」と話を打ち切り、それ以上のパウロとのやり取りを拒(こば)みました。彼は“今回”というチャンスを逸いっ)したのです。
       *
 ところで、主イエスが語られた教えに、〈実らないいちじくの木のたとえ〉という話があります。ある人が自分の土地にいちじくの木を植えました。ところが、3年経っても一つも実をつけないいちじくに、この人は、切ってしまえと園丁(えんてい)に命じます。しかし、園丁はこう言って執(と)り成します。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(ルカ13章8~9節)。
 いちじくの木には、もう1年のチャンスが与えられました。この1年で実が成れば良し。けれども、成らなければ切り倒されてしまいます。つまり、チャンスはこの1年という“今”です。「今回」です。次回はないのです。
 神の言葉という「肥やし」をいただいて、それに応え、悔い改めという実を結ぶこと。心を入れ替えて神を信じ、神の御心(みこころ)に従って生きることが“今”期待されています。人は、自分の考えで「適当な機会」を考えますが、神さまは“今”、招いています。
 一期一会(いちごいちえ)という言葉があります。元々、茶道において亭主と客が、この機会は一生に一度の出会いであると心得て、お互いに誠意を尽くす心構えのことを言います。「今回」という機会は一度きりである。あるいは、これが最後かも知れないという思いで、相手と接する。そういう意味で、“神さまとの一期一会”を意識して、“自分は今、神さまから信じる道に招かれている”と感じるなら、心を入れ替えるのは「今回」です。
 けれども、もし1年後に、このいちじくの木が実をつけなかったらどうなるでしょうか。切り倒されてしまうのでしょうか。文字通りに理解するなら、そうなります。けれども、おそらく園丁は、「今年もこのままにしておいてください。‥‥」と執り成すに違いありません。実が成るまで肥やしをやり、繰り返し執り成し、待ち続けるでしょう。だから、神さまを信じるチャンスは「今回」だけではありません。次回があるのです。だから、いつでも自分が神さまから招かれていると感じた次回が「今回」になります。間に合わない悔い改めはないのです。矛盾しているようですが、神さまとの関わり、信仰とはそういうことなのです。
      *
 フェリクスも、動機は不純ですが、その後もパウロのことを「度々呼び出しては話し合っていた」(26節)とあります。お金の話だけをするわけにはいかなかったでしょうから、その度に、フェリクスは信仰の話を聞き、多少なりとも神の迫りを心に感じていたのではないでしょうか。だから、“次回”というチャンスが彼に用意されていたのです。
 けれども、フェリクスは信仰の道に入ることはなかったようです。彼にはもはや神さまに救われるチャンスはないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。今回の説教を準備しながら、ペトロの手紙(一)4章6節に、次のような言葉を見つけました。「死んだ者にも福音(ふくいん)が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」。  
残念ながら、地上の人生においては、神を信じて生きる喜びを味わうことはなかったでしょう。けれども、死んだ人にも、神の言葉は告げ知らされている。救いに招かれている。そこで悔い改めて信じた人は、霊において生きる。つまり、永遠の命をいただき、天国で平安に生きることができる、ということです。死んだ後にもチャンスがある。
 御言葉(みことば)の分かち合いをしていて、ある方が“神さまは太っ腹だ”と言われました。私たち一人ひとりを救おうと願っておられる神さまの腹は、その愛の思いでどれだけ太いか分かりません。「今回」招かれているなら“今”信じることが大切です。けれども、一生涯、いや死んでもなお“次回”があります。間に合わない悔い改め、遅そ過ぎる信仰はありません。私たちは、そのような信仰の道に招かれ、歩んでいます。感謝!

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム