坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「新しい思いを持って」

2023年1月1日(日) 主日礼拝説教                   
聖 書 マルコによる福音書2章18~22節
説教者 山岡 創牧師

18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食(だんじき)していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 19イエスは言われた。「花婿(はなむこ)が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」


「新しい思いを持って」
 “天使の分け前”という言葉をご存じでしょうか?昔、スコットランドでウィスキーを造っていた人たちは、樽(たる)の中からお酒が少しずつ減っていくことを、とても不思議に思っていました。どうしてだろう?そうか、これは人間にウィスキーの造り方を教えた天使が、その見返りとして樽の中の酒を少しずつ味見しているのだ。彼らはそのように考えて、この現象(げんしょう)を天使の分け前と呼びました。天使が見守り、味見することで、ウィスキーは熟成(じゅくせい)され、琥珀色(こはくいろ)に色づき、豊潤(ほうじゅん)な味わいに深まっていく。とてもすてきな、ロマンチックな考え方です。
 そのカラクリを言えば、ウィスキーが熟成する過程で、水分やアルコール分が蒸発し、樽の木目から発散されていくために、最初に樽に仕込んだ量が目減りしていくのです。
「だれも、新しいブドウ酒を古い革袋(かわぶくろ)に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる」(22節)。最初にこの箇所を読んだ時、どうして新しいぶどう酒を古い革袋に入れると袋が破れてしまうのだろう?と不思議に思いました。その理由が“天使の分け前”から分かりました。ぶどう酒もウィスキーと同じことです。ぶどう酒を袋に入れて熟成させる過程でアルコール分が蒸発(じょうはつ)し、ガスになります。けれども、革袋には木の樽のようにガスを逃がす隙間がありませんから、革袋は膨張(ぼうちょう)します。そうなると、既に革が伸び切っている古い革袋では、袋が膨張できず、圧力で破れてしまうのです。だから、新しい酒は、革が伸びる柔軟性のある新しい革袋に入れて熟成させる必要がある、ということです。
 このたとえは、主イエスがもたらす新しい神の救いの恵みは、新しい信仰でなければ受け止められない、古い信仰では破れてしまう、つまずいてしまう、ということです。
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 「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」(18節)。人々は主イエスに尋ねました。言わば彼らは、「古い革袋」を持った人々でした。
 現代では健康増進やダイエットのためにファスティングと言われる断食がブームです。私もすっかりサボっていますが、昨年度はファスティングに取り組んでいました。けれども、聖書の中で言われている断食はその意味、目的が全く違います。
断食というのは、祈りや嘆(なげ)き、罪の悔い改めなど、神さまに対する敬虔(けいけん)さを表わす行為でした。ユダヤ教の掟である律法には、年に一度、すべてのユダヤ人の罪を贖(あがな)う儀式が行われる日に、人々は断食するようにと定められていました(レビ記16章)。けれども、熱心に律法を守る洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は、それ以上の断食を自発的に行っていたようです。ルカによる福音書(ふくいんしょ)18章9節以下にある、主イエスのたとえ話の中に登場するファリサイ派の人は、週に2度断食している、と語っています。1年に1度どころか、100回以上断食していることになります。神さまに対して敬虔な行為を積めば積むほど神さまに認められ、救われると彼らは考えていたのです。
そういう彼らの信仰からすれば、断食をしない主イエスの弟子たちの信仰生活は考えられないことでした。
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 「なぜ」という問いかけ、と言うよりは非難に対して、主イエスはお答えになります。婚礼が行われ、花婿が一緒にいて、喜びとお祝いのパーティーがなされているのに、そんな席で、嘆きや悔い改めの断食をするのは場違いだ、と。確かにそうです。結婚式の席でお祝いの食事をせず、断食する人はいません。
 主イエスはご自分のことを、婚礼の花婿にたとえています。喜びと祝いの場の中心、主役です。そして、主イエスの婚礼に招かれている客が、主イエスの弟子たちです。それならば、主イエスとの関わりにおいて何を喜び、何を祝うのでしょうか?
それは、主イエスによってもたらされた神の愛です。その愛によって、自分が無条件で、無償で愛され、認められ、神に受け入れられているという救いです。救われるために自力で条件を満たす必要はないのです。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々のように、断食等の敬虔な行いを積み重ねて、「正しい人」になる必要はないのです。むしろ、自分はこれだけのことをやって、それだけの価値のある人間だと自分を誇る人は救われません。必要なのは、行いとしての敬虔さではなく、徴税人(ちょうぜいにん)のように「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈る、内面的な、真実の敬虔さです。
 今日の聖書の直前の箇所で主イエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。神の救いに招かれる人はだれか?今までの考え方では、律法を守る人でした。断食等の掟を守り、その意味で「正しい人」「丈夫な人」でした。正しい人が神の国に招かれ、救われる、という信仰でした。
 けれども、主イエスはそれをひっくり返したのです。丈夫な人、正しい人ではなく、「病人」「罪人」こそ、神の愛によって救いに招かれるのだ、と。それが「新しいぶどう酒」です。新しい救いの教えです。
 もちろん、律法(りっぽう)の行いなんてどうでもよいとないがしろにしているのではありません。そうではなく、行いによって自分には救われる資格があるとする考え方をやめよ、神さまに対して自分は罪のない、正しい人間だと自負する誇りをやめよ、と言うのです。そういう自意識から、“あいつは罪人だ”と他人を裁くのをやめよ、と言われているのです。
 どんなに熱心に律法を守り、悔い改めを行い、敬虔であろうとしても、人間には必ず不完全さがあり、醜(みにく)さがあるということ、自分には罪があるということ。そして、その罪を自分の力、自分の行いではどうすることもできないことを認め、主イエスによる魂の治療、主イエスによる赦(ゆる)しを求めること。それが「病人」「罪人」の魂の姿勢です。そのような魂の姿勢こそ、神の無条件の愛を、無償の救い受け入れる「新しい革袋」です。そして、「病人」「罪人」である自分が愛され、赦され、認められ、一人の人間として受け入れらていることを信じたなら、胸の内に喜びが、祝いの気持が湧(わ)きあふれます。自分の人生はまさに“婚礼のパーティー会場”に変わります。
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 新しい年2023年を迎えました。私たちはともすれば、自分の行いとその結果に価値を見出す生き方をします。しかし、そのような「古い革袋」を払拭(ふっしょく)し、「新しい革袋」を持って、神の豊かな愛を受け入れて歩みましょう。悲しみや労苦があるのが私たちの人生ですが、新しい革袋があればきっと、喜びと感謝が心に湧いてきます。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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