坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「約束を待ち望む」

2023年1月22日 主日礼拝説教                           
 聖 書 使徒言行録26章1~8節
説教者 山岡 創牧師

1アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。 2「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。 3王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。 4さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。 5彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。 6今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。 7私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。 8神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難(がた)いとお考えになるのでしょうか。

「約束を待ち望む」
 ドイツに留学していた一人の青年が、とある店で一つの人形を見つけます。背筋をピンと伸ばし、フォーマルなスーツを着て、男爵(だんしゃく)の姿をした猫の人形です。その目はガラス玉でできていて、太陽の光を当てると、その目に光が宿り、複雑に反射してキラキラと光ります。
その魅力に惹(ひ)かれた青年は、自分に譲(ゆず)ってほしいと頼みました。ところが、店長はその願いを断ります。この猫の男爵には貴婦人(きふじん)の連れがいる。今、その貴婦人は修理に出していて、彼はその帰りを待っている。だから売ることはできない、と。青年はあきらめかけました。と言うのは、戦争が始まろうとしていた矢先で、すぐに日本に帰国しなければならず、修理が終わるのを待っている時間がなかったからです。
 ところが、その時、彼に連れ添(そ)っていたドイツ人の女性が、自分がその猫の貴婦人を引き取り、将来必ずこの二人を会わせるから、と申し出てくれたのです。その言葉に店長も折れて、男爵を青年に譲ってくれました。青年と連れの女性は別れ際、必ず猫の男爵と貴婦人を再会させようと約束します。それはもちろん、二人の再会の約束でした。
 実はこれ、ジブリのアニメーション映画『耳を澄ませば』に登場する老人の思い出のエピソードです。戦争が終わった後で、青年は再びドイツに渡り、この女性を方々捜します。けれども、残念ながら、遂にその女性を見つけることはできませんでした。
実現しない約束もあります。けれども、たとえ結果がそうだとしても、約束は青年の希望となり、戦争の中を生き抜くモチベーションとなっていたに違いありません。
 今日の聖書箇所に書かれている「約束の実現」という言葉から、ふとアニメの一つのシーンを思い起こしました。はて、自分は何か“約束”というものをしたことがあるだろうか?大きな約束と言えば、30年以上前にした結婚の約束ぐらいです。が、そう言えば一昨日の金曜日の朝、妻と約束をしました。仕事が終わったら夜、ドライブしてショッピング・モールに買い物に行こう、と。それは、ちょっと嬉(うれ)しい約束で、“よーし、今日一日、仕事をがんばろう!”とモチベーションになりました。もちろん、約束がなくても仕事は普通にします。でも、約束があると気持がポジティブになる。約束は、大きく言えば生きる「希望」(7節)となり、日常的には生活のモチベーションになるのです。
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 「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです」(6節)。パウロはアグリッパ王の前で弁明しました。ユダヤ州の総督官邸に2年間、監禁(かんきん)、保護されていたパウロは、新しい総督としてフェストゥスが着任した時、ユダヤ人に再び訴えられ再審となりました。その結果、パウロはローマ皇帝の最高裁判に上訴(じょうそ)せざるを得ないことになりました。そこで、フェストゥスはアグリッパを証人として、その内容を皇帝に書き送ろうとしたわけです。
 「神が私たちの先祖にお与えになった約束」、それはユダヤ人のルーツであるアブラハムに遡(さかのぼ)ります。主なる神はアブラハムに、生まれ故郷、異教の地を離れ、わたしが示す地に行けと命じます。そしてその地でアブラハムを祝福する、と神さまは約束されたのです(創世記12章)。それは、子孫が増え広がり、豊かな土地が与えられるという内容でした。アブラハムの子孫はこの約束を受け継ぎます。約束を信じて、奴隷の地エジプトを脱出し、荒れ野を旅し、カナンの地に住み着きます。その後、王国が滅ぼされ、大国の支配を代わる代わる受けても、約束を信じてエルサレムに帰還し、一時は王国を復興します。パウロの時代には長らくローマ帝国の支配を受けていました。それでもユダヤ人は、約束を信じて、国土の回復と王国再建、民族の繁栄を夢見ていたのです。
 やがてローマ帝国との間にユダヤ戦争が起こり、ユダヤ人は敗れ、カナンの地、エルサレムから追い出され、世界中に散り散りにされ、“流浪(るろう)の民”となります。以来約2千年の間、他民族から迫害を受け、第2次世界大戦の際にはナチス・ドイツによって大虐殺(だいぎゃくさつ)という悲惨を経験しました。それでも彼らは約束を捨てない。信じることをやめない。それが彼らの希望であり、生きる力だったからです。  
やがて第2次世界大戦が終わった時、世界中に散っていたユダヤ人が約束の地に帰還するシオニズム運動が起こりました。その精神的な支えとなったのが、神の祝福の約束を信じる信仰でした。もちろん、先住民のパレスチナ人を追い出し、今も争いを続けていることに関しては、単純に肯定することはできません。けれども、帰還した多くのユダヤ人が“この時を待っていた。神の約束を信じていた”と証しするのです。彼らは、アブラハムに約束された神の祝福の実現を、今も信じ、望み、生きているのです。
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 約束の実現。「王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです」(7節)とパウロは弁明しました。訴えられたのは、約束の内容がユダヤ教を信じるユダヤ人たちと、パウロらクリスチャンたちとの間で大きく変わってしまったからです。パウロが信じている祝福の約束は、主イエス・キリストとその弟子たちが宣(の)べ伝えた「神が死者を復活させてくださるということ」(8節)だったのです。
 ユダヤ人は、現実世界、地上における王国復興と民族繁栄を神の約束として信じていました。けれども、主イエスは、「わたしの国は、この世に属していない」(ヨハネ18章36節)と証言し、“霊の世界”において死者が復活し、永遠の命に生きる神の国を宣べ伝えました。パウロも、主イエスと霊において出会い、復活と永遠の命を信じ、神の国に入ることを希望として生きる信仰に変わりました。神の力とキリストの愛が、神の国を実現すると信じて、今、地上の命を生きている時から、律法の行い厳守の考えを捨て、神の愛の下に人と人とが互いに愛し合う愛と平和の交わりを生きているのです。
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 私たちが望むものは何でしょうか?子孫繁栄や土地、国家という目に見える祝福でしょうか?財産、地位、名誉、才能と結果、そういった目に見える幸せでしょうか?もちろん、それらが私たちの人生に全く必要ないとは言いません。けれども、祝福とか幸せとか、救いといったことを考える時、それ以上に大切なものがあるように思うのです。
 私は最近、ふと、この世において心から信頼し、愛し合える相手と巡り合うことができたら、それがいちばんの幸せなのではないだろうか、と思いました。それは言い換えれば、お互いに誠実に約束を交わすことができるような、人格的な関係でしょう。
 神さまと私たちは、御言葉(みことば)と祈りと霊において、約束を交わせるような、人格的な関係だと言うことができます。神さまは私たちに、愛と平和を約束してくださいます。互いに愛し合う相手を備えてくださいます。復活と永遠の命、神の国を約束してくださいます。神さまは主イエスの十字架にかけて約束を破りません。神の国では、分からなかった不条理(ふじょうり)が明らかになるでしょう。愛する人と再会できるでしょう。神と人、人と人の間に愛と平和が満ちあふれるでしょう。この約束の実現を信じて、“今日一日、命をがんばってみよう!”と思って生きることができたら、何と幸いでしょうか。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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