坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「光を語り告げる」

2023年2月5日 主日礼拝説教                          
聖 書 使徒言行録26章19~23節
説教者 山岡 創牧師

◆パウロの宣教の内容 19「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背(そむ)かず、 20ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔(く)い改(あらた)めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。 21そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内(けいだい)にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。 22ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証(あか)しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。 23つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」
「光を語り告げる」
 一昨日2月3日は〈節分〉でした。節分というのは本来、季節と季節を分ける日という意味で、1年に4回あるのだそうです。でも、ほとんどの人が節分と言えば、立春の前日の2月3日を思い浮かべるでしょう。それは、豆まきという行事が定着しているからではないでしょうか。“鬼は外!、福は内!”と掛け声をしながら豆をまき、鬼に象徴される邪気(じゃき)を祓(はら)い、その後、1年間の幸せを祈りながら、年齢の数だけ豆を食べるのが、節分の豆まきのスタンダードです。
 節分の一昨日、私は、あきる野市の子育て支援センターに、月1度の聖書の学びで伺いました。すると、屋内の入口の前に鬼が立っていました。手作りのアトラクションです。“帰りに先生もやって行ってくださいね”と言われ、研修の後にチャレンジしました。豆の代わりにボールが6個、転がして下から入れるか、上から投げ入れるゲームです。やるからには本気です。“心の鬼を追い払う!”なんて格好いいことを言って、上着を脱いで、よし!‥‥6個全部入れるつもりでしたが、これがなかなか難しく、3個しか入りませんでした。でも、3個分、可愛いビスケットをお土産にいただきました。
 それから家に帰り、すぐそばのヤオコーに買い物に行きましたら、恵方巻(えほうまき)きがお総菜(そうざい)コーナーにありました。夜だったので半額になっています。これは折角(せっかく)だから、と思い、2本買って、家族で一切れずつ食べました。方角はどっち?なんて聞いて、食べている家族もいました。最近では豆まきよりも恵方巻きを食べる方が、身近な行事になってきたような感があります。これは、その年の幸せを司る神さまがおられる方向、つまり恵方に向かって事を行えば、“何事も吉”という陰陽道(いんようどう)の考えが背景にあるそうです。
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 「悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました」(20節)。信仰の違いのためにユダヤ人から訴えられていたパウロは、アグリッパ王を前に、このように証言しました。直前の18節にも「神に立ち帰らせ」と同じ言葉があります。それは「サタンの支配から」神に立ち帰らせる、ということです。豆まきゲームの際に“心の鬼を追い払う”と言った時、私は、聖書に登場するサタンを思い起こしていました。サタンとは、日本流に言えば、心の鬼だな、と思います。
 そして、「悔い改めて神に立ち帰る」とは、これまた日本流に言えば、恵方に向くということでしょう。悔い改めとは、ギリシア語でメタノイアと言い、“心の方向転換”という意味です。つまり、神さまのいない方向を向いて生きていた人間が、神さまのいる方向に、恵(めぐ)みの方向に向きを変えて生きるということです。言い方を変えれば、それは「サタンの支配」されているような生き方から「神に立ち帰っ」て生きるということです。
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 主イエスが教えられた〈放蕩(ほうとう)息子のたとえ〉を思い起こします(ルカ15章)。ある父親に二人の息子がいましたが、弟の方が父親に財産の生前贈与(せいぜんぞうよ)を要求します。そして、贈与されたものを全てお金に換えて遠い国に、父親のいないところに旅立ち、気の向くままにやりたい放題の生活をします。もちろん、そんな生活が長く続くはずがない。遂(つい)に財産を使い尽(つ)くし、金の切れ目が縁の切れ目、取り巻きの友人たちは離れて行き、職を探そうにもつてもなし、彼は食いつなぐために、ユダヤ人が忌(い)み嫌う豚を飼(か)う仕事をせざるを得なくなります。豚のえさを食べたいと思うほどのひもじさを味わいながら、彼はついに見栄も意地も捨てて、どんなに恥ずかしくても父親のもとに帰ろうと決心します。せめてもの罪滅ぼしとして、息子ではなく、赤の他人、雇い人として雇ってもらおうと考えて、彼は父のもとに帰ります。
 ところが、父親は、まだ遠く離れたところにいる息子を見つけます。その姿を見て憐(あわ)れに思い、走り寄って抱きしめます。そして、息子が謝罪の言葉を語ろうとする前に、召使いたちに命じてお祝いの宴(うたげ)を催し、“息子が帰って来た”と喜ぶのです。
 「神に立ち帰る」とは、喜びと祝いの宴(人生)に立ち帰るということです。財産に象徴されるこの世の何かに頼りながら、迷いと孤独と絶望の「闇(やみ)」(18節)の中を歩いていた。サタンに心を支配されながら歩いていた。そういう生き方から、父親のもとに、つまり神のもとに帰ることです。何であれ自分の現状を悔いる。神に心を向ける。そして、行いで自分を変えられなくても、自分を赦(ゆる)し、受けれ入れてくださる神の愛を知ることです。どんな時も、どんな境遇でも、どんな人間でも、私たち一人ひとりを責めずに、受け入れてくださる“安心の場所”に自分の人生を据え直すのです。
うまく行っている時には、私たちは神さまに意識を向けないかも知れない。でも、失敗した時、挫折(ざせつ)した時、過ちを犯した時、苦しみ、悲しむ時、迷い、悩む時、私たちは、そこにはいたくないと、恵みの人生の方向に向かいたいと私たちは願います。その時、信仰は心の内で光り輝(かがや)くのです。
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 話は変わりますが、カトリックの司祭である井上洋治さんはある時、“人生で一番大切なもの”というテーマで原稿を書いてほしいと、出版社から頼まれました。そんな時、一通の手紙が舞い込みます。若い女性からの手紙で、交通事故を起こして、顔に大やけどを負った。それ以来、苦しみの連続で、これでは結婚もできない、もう死んでしまいたいという内容の手紙でした。その手紙を読んだ時、井上先生はハッしたといいます。
 私たちは、健康にしろ、財産にしろ、友情にしろ、家庭にしろ、たくさんそういう大切なものを持って、またそういった大切なものにささえられて生きているわけですけれども、いざそういうものを失ってしまったときに、価値ある大切なものを失って色あせてしまったときに、その色あせ挫折してしまった自分を受け入れることができる心というもの、それが考えてみれば人生で一番大切なものではないかと思ったのです。(『人はなぜ生きるか』9頁)
 井上洋治さんは、色あせ、挫折した自分を受け入れるには、そんな自分が、いやどんな自分でも“受け入れられている”ことを知ることだと、その後で書いています。それは、天地と私たち人をお造(つく)りになった、大きな大きな存在に、すなわち神さまに愛されて、受け入れられていることを信じることです。
 復活した主イエスが語り告げる「光」(23節)とは、この神の愛のことでしょう。悔い改めて立ち帰るとは、この神の愛のもとに、自分を据(す)え直すことです。そこから私たちは、自分を受け入れ、置かれたところで花を咲かせるように、喜びと祝いの人生を歩み始めます。パウロは、この「光」を宣(の)べ伝えているのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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