坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「主イエスの推し活」

2023年2月12日 主日礼拝説教                          
聖 書 使徒言行録26章24~32節
説教者 山岡 創牧師

◆パウロ、アグリッパ王に信仰を勧(すす)める 24パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」25パウロは言った。「フェストゥス閣下(かっか)、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。26王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。27アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」28アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説(と)き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」29パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」30そこで、王が立ち上がり、総督(そうとく)もベルニケや陪席(ばいせき)の者も立ち上がった。31彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。32アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。

「主イエスの推し活」
 「お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」(24節)。弁明を続けるパウロに向かって、総督フェストゥスは叫びました。フェストゥスからすれば、パウロの語っている内容が、狂っている人間のたわ言のように思われたからでしょう。特に、主イエスが復活した(23節)という証言は、頭がおかしいとしか思えなかったのです。
 本当に頭がおかしくなっている。理性を失い、常軌(じょうき)を逸(いっ)している場合もあります。けれども、そうではない場合もあります。それは、相手の言葉や行動が、自分の知識や常識では測(はか)れず、自分の理解力、自分の価値観では分からない場合です。そして、パウロとフェストゥスの場合は、間違いなく後者でしょう。分からないのです。
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 フェストゥスの暴言にパウロは答えます。「わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです」(25節)。フェストゥスには分からないでしょうが、パウロにとっては「真実で理にかなったこと」なのです。それは、ユダヤ人の歴史的伝統と、神の言葉である聖書によって培われたパウロの価値観からすれば、理にかなったことなのです。つまり価値あるもの、すばらしいものなのです。自分の人生と生き方に大きな影響力を及ぼしているという意味で、喜びや希望、愛を、自分の心に注ぎこんでくれるという意味で「真実」なものなのです。
 ある場所にラーメン屋があるとします。その店を見て“ここにラーメン屋がある”ということは“事実”です。でも、その店のラーメンを食べて、“この店のラーメンはうまい!”というのは事実ではありません。なぜなら、美味(おい)しくないと感じる人もいるからです。おいしいか、おいしくないかは、その人の味覚、その人の価値観によって変わります。でも、この店のラーメンは美味しい、と思ったら、その感激はその人にとって“真実”です。その人自身が確かに、喜びを、幸せを、感動を感じているからです。  
そして、宗教の世界、信仰の生き方も、そのように真実なものでありましょう。それは、他人からとやかく言われるものではなく、自分自身がその“味”を味わって、かみしめて、喜び、感謝するマイ・ワールドであり、生き方なのです。
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 しかも、自分が、すばらしいと、幸せだと感激したものは、不思議とだれかに伝えたくなります。そして、その喜びを共有したくなります。美味しいラーメンを食べたら、“あの店のラーメンはとても美味しかったよ!”と誰かに言いたくなります。それが仲の良い友だちや家族だったら、“今度、一緒に食べに行かない”と誘うかも知れません。パウロもそうなのです。アグリッパ王に、主イエスの救いの味を勧めているのです。
26章の前半で、パウロは主イエスとの出会いを、アグリッパ王に証言して来ました。アグリッパ王はユダヤ人で、ユダヤ宗教信仰をよく知っています。それで、ローマの最高裁判に上訴したパウロの調書を作るために、総督フェストゥスが、アグリッパ王を証人として、パウロに証言させているのです。
 そのような取り調べの場で、パウロの言葉はいつしか熱がこもり、弁明から伝道へ、証言から布教へと変わって行っています。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(27節)と。「王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」(29節)と。これはもはや弁明と言うよりは、伝道、布教です。“主イエスの救いの恵みはとっても美味しいよ。一緒に教会に行って、その恵みの味を味わってみようよ”と。
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 ところで、皆さんは“推(お)し活”という言葉をご存じでしょうか?若い人たちは知っていると思いますが、推し活とは、アイドルやキャラクター等の“推し”、いわゆる自分が好きな対象を応援する活動のことで、“オタク活動”の一つだと言われています。なあんだ、自分には関係ないや、と思うかも知れませんが、ところがどっこい!‥‥推し活の対象は、アイドルや歌手、俳優、声優からスポーツ選手、作家、果ては歴史上の人物といった実在の人物はもちろん、アニメやゲーム、マンガ等の2次元キャラクターから、建物や鉄道、刀剣や仏像、動物等もその対象なのです。つまり、何か好きなもの、愛でる対象があれば、その人は推し活をしているということになります。と言うことは、ほとんどの人が誰かの推し、何かの推しなのです。例えば、ディズニーランドが好きで、よく行く人、グッズを集めている人は“ディズニー推し”だという理解になります。
具体的な行動、活動としては、ライブや舞台を観(み)に行く。DVDやYouTubeの映像を鑑賞する。聖地巡礼をする。ファンレターやプレゼントを贈る。グッズを買い、コレクションする。推しが持っている服やコスメ等、同じものを持つ、とか。私自身も以前、武田信玄ゆかりの地巡り旅行をしたり、ジブリ映画〈耳を澄ませば〉の聖地巡礼に聖跡桜ヶ丘に行ったり、遊戯王カードをめちゃめちゃ買い集めてコレクションしたりと、立派な推し活オタクだなぁ、と思いました。
更(さら)には、一人静かに推しのことを想う。推しが生きて存在していることに今日も感謝する(笑)。SNSで推しの魅力(みりょく)を語(かた)る。推しを他人に布教する、なんてことまでありました。私が読んだ〈推し活事情を学ぶ〉というブログには、後半はもはや宗教かと思われそうな行動ですが、実際、信仰しているようなものなのでだいたい合っています、と書かれていました。
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 そうなのです。パウロって、熱烈な“主イエス推し”なのです。主イエスの御言葉と、その救いの魅力に取りつかれた“推し活者”です。十字架に架けられ、復活した主イエスが今も、聖霊によって生きて働いておられることを今日も感謝し、一人静かに主イエスの御言葉と救いを黙想し、主イエスの救いを他人に布教しているのです。
 でも、パウロだけではありません。熱量はパウロほどではない、人それぞれですが、クリスチャンとは言わば、“主イエス推し”の人間でしょう。救い主「メシア」(23節)という、言わば“宗教的アイドル”である主イエスの御言葉に感銘を受け、その救いの恵みに魅(み)せられ、主イエスを推して生きる人間です。
この信仰の価値が理解できない人には「頭がおかしい」と言われるかも知れない。“深入りするな”と止められるかも知れない。それでも、クリスチャンとは主イエスによって愛されている喜びに生きる者です。そして信仰と愛の喜びに生きている人は、毎日自然に主イエスの“推し活”をしているのです。祈りも推し活、御言葉の黙想も推し活、礼拝も推し活です。“推し活”バンザイ!、主イエスの恵みを喜び、感謝しているなら、人から何と言われようと自分が信じる“主イエス推し”の道を進みましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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