坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神が来ているのに」

2023年2月19日 主日礼拝説教                          
聖 書 ルカによる福音書19章28~44節
説教者 山岡 創牧師

◆エルサレムに迎えられる 28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱(しか)ってください」と言った。40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙(だま)れば、石が叫(さけ)びだす。」
41エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
42言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。43やがて時が来て、敵が周(まわ)りに堡塁(ほるい)を築(きず)き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、44お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩(くず)してしまうだろう。それは、神の訪(おとず)れてくださる時をわきまえなかったからである。」
「神が来ているのに」
 ロシアによるウクライナ侵攻があと数日で丸1年になろうとしています。未だこの戦争がどのような形で終わるのか、ウクライナの人々に平和な暮らしが回復するのか、先が見えません。それにしても、両国にはお互いに親戚や親しくしている人もいるような間柄です。前線にいるロシア軍の兵士たちの多くは戦いたくはないでしょう。他に道はなかったのでしょうか。もしその場に主イエスがおられたら、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら‥‥」(42節)と嘆かれたのではなかろうか。ふとそんなことを思いました。
 過越(すぎこし)の祭に参加するためエルサレムに上(のぼ)られた主イエスは、オリーブ山から、この都を眼下に捉(とら)えて、「お前も平和への道をわきまえていたなら」と泣いて言われました。なぜなら、エルサレムを敵が取り囲み、四方から攻めよせ、この都を滅ぼしてしまう「時」を、エルサレムの人々の命が奪われる戦争を予想しておられたからです。
 この時から約40年後にユダヤ戦争が起こりました。ローマ帝国に支配されていたユダヤ人がエルサレムに立てこもり、独立戦争を起こしたのです。その結果、ユダヤ人はローマ軍に敗れ、エルサレムは廃墟となり、ユダヤ人は海外へと散り散りにされました。その時からユダヤ人の流浪(るろう)の歴史、苦難の歴史が始まったのです。
 ユダヤ人、特に宗教的過激派は戦争を選びました。もちろん民族の自主独立は当時も、また現代社会においても、当然の願いでしょう。けれども、巻き込まれた多くの犠牲者が出ました。そして苦しみはその後も続きました。他に道はなかったのでしょうか。
 何が正解なのか、平和とは何なのか、簡単には分かりません。けれども、主イエスは戦争によらない「平和への道」があることを暗示しています。それは、「神が訪れてくださる時」(44節)をわきまえることによって実現する平和です。
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 主イエスは、「主の名によって来られる方」(38節)としてエルサレムにおいでになりました。つまりそれは、神に遣(つか)わされた救世主メシアとしておいでになった、神の意思を携(たずさ)え、すべてを任された“神の全権大使”としておいでになったということです。
 その際、主イエスは、「子ろば」に乗っておいでになりました。それは旧約聖書・ゼカリヤ書9章9節に記されている預言を踏まえて、子ろばに乗られたのです。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌(めす)ろばの子であるろばに乗って。
 わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告(つ)げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」
 戦う王、民族の軍事的英雄ならば軍馬に乗って入城するところです。エルサレムの人々も、弟子たちでさえも、「声高らかに神を賛美し始めた」(37節)時、そのような「王」を期待していたに違いありません。
 けれども、主イエスは軍事力によって人々を支配し、力による平和をもたらすために来たのではありません。子ろばに象徴される優(やさ)しさによって、すなわち“愛”によって平和を生み出し、広げるためにおいでになりました。それが神のご意思だったのです。
 主イエスは神の愛と平和を携えておいでになりました。その意味で、主イエスを通して「神が訪れて」(44節)くださったのです。けれども、人々は神の訪れに気づかず、わきまえず、自分の身勝手な思いから主イエスを排斥(はいせき)し、最後には十字架に架(か)けて殺してしまいました。愛と平和の神を殺し、「平和への道」を捨ててしまったのです。
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 けれども、神の訪れはエルサレムの人々のところにだけ来たのではありません。すべての人に、それこそ私たちのところにも来ているのです。
 礼拝のはじめに、神の招きの言葉を聴(き)きました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3章20節)。聖書を通して主イエスが私たちのところにも来ています。心の扉(とびら)をノックしています。その訪れに、私たちは気づいているでしょうか?
 その訪れに気づいて、戸を開けて主イエスを迎えれば、主は喜んで食事を共にしてくださるのです。止揚学園(しようがくえん)の女の子が、“平和ってな、みんなで一緒にごはん食べることやもん”と言いました。確かに!そのことからすれば、主イエスが食事を共にしてくださるということは、私たちの内に平和を造り出してくださるということでしょう。この主イエスの訪れに私たちは気づいているでしょうか?
 もちろん主イエスは、それが主イエスだとだれにでも分かるような姿でおいでになるのではありません。主イエスの訪(おとず)れに気づくためには、目に見えない大切なものを見るセンスが、何事かを通して主イエスが来ている、心の戸口に立って叩いていることを受け取る洞察力が必要です。言い換えれば、人生で何が大切かを悟る心です。
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 ロシアの文豪トルストイの小説『愛のあるところに神あり』を思い浮かべます。別名『靴屋のマルチン』というタイトルで親しまれています。靴職人マルチンは妻子に先立たれ、寂しさから荒(すさ)んだ生活を送っていました。そんな折(おり)、訪ねて来た牧師から、聖書を読んでごらん、と勧められ、気が進まないながらもマルチンは聖書を読み始めます。すると、不思議に心が落ち着いて眠れるようになりました。
 ある夜、マルチンがいつものように聖書を読んでいると、主イエスの声が聞こえてきました。“明日、あなたの家に行く”という声でした。翌日、マルチンは部屋を整え、仕事をしながら、主イエスの訪れを待ちました。そうして待っている間に、彼は、雪かきの老人に温かいお茶を振る舞い、行きずりの母親と赤ちゃんには食事をご馳走し、自分のオーバーを与え、りんご泥棒の少年とりんご売りの老婆の間を仲裁し、取り持ちます。
 やがて日が暮れ、夜になりました。マルチンは、とうとう主イエスは来なかったと思いながら聖書を読み始めます。すると、再び声が聞こえてきました。“マルチン、私は今日、あなたのところに行ったよ”。そして、今日マルチンが関わった人々の姿が幻のうちに浮かびました。それらの人々の姿で、主イエスはマルチンに、何が大切かを伝えにおいでになったのです。
 主イエスが伝えようとしたこと、それは“あなたの愛が必要だ”ということだったのかも知れません。「主がお入(い)り用なのです」(31節)と、主イエスが私たちに必要とされるものは、私たちの“小さな愛”なのではないでしょうか。神さまの大きな愛で愛されていることを信じる私たちが、感謝して、その愛に応えて提供する小さな愛です。たとえ小さくても、その愛が、平和を生み出す材料になります。「平和への道」を実現します。

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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