坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「祈りの家か、強盗の巣か」

2023年2月26日 受難節第一主日礼拝説教                          
聖 書 ルカによる福音書19章45~48節
説教者 山岡 創牧師

◆神殿から商人を追い出す 45それから、イエスは神殿の境内(けいだい)に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀(はか)ったが48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
「祈りの家か、強盗の巣か」
 強盗が祈るとしたら、どのように祈るのだろう?ふと、そんなことを考えました。“神さま、私の盗(ぬす)みがうまくいくようにしてください。私が盗んだことが人に知られないようにしてください。私の盗みの罪を、神さま、罰(ばっ)さないでください”。‥‥‥いくら強盗とは言え、さすがにこんな虫のいい祈りをする人間はいないか、と思います。
 けれども、忘れてはならないのは、ここで主イエスが「強盗」(46節)にたとえているのは、本物の強盗のことではありません。神殿の境内で商売をしていた人々です。神殿のルールを破って、違法に商売をしていたわけではありません。「祭司長、律法学者、民の指導者たち」(47節)から認められて商売をしていたのです。海外からやって来たユダヤ人が神殿で祈り、献(ささ)げ物をささげられるように、その便宜(べんぎ)を図(はか)るべく、海外の貨幣をユダヤの貨幣に両替し、献げ物にする動物を売っていたのです。
 でも、そういう商売人たちが「強盗」と呼ばれている。いや、彼らに商売を許している「祭司長、律法学者、民の指導者たち」も同様に「強盗」と見なされている。神さまから神殿を奪(うば)い取り、その場を「強盗の巣」(46節)にしている。そのように侮辱されたからこそ、彼らは「イエスを殺そうと謀った」(47節)のです。
 先ほども言いましたが、本当に強盗なのではありません。ユダヤ教の指導者です。普通の商売人です。もちろん信仰のある人々です。それが「強盗」と言われ、神殿が「強盗の巣」だと非難されるのは、なぜでしょうか?主イエスが求める「祈りの家」とは、どのような信仰で礼拝と祈りがなされている場所なのでしょうか?
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 “祈り”ということで思い起こしたことがあります。主イエスが語られた〈ファリサイ派と徴税人のたとえ〉です(ルカ18章)。ファリサイ派の人と徴税人(ちょうぜいにん)が祈るために神殿に上りました。ファリサイ派はユダヤ教の中で、熱心に神の掟(おきて)、律法を守り行う人々です。彼はこう祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪(うば)い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯(おか)すものではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に2度断食し、全収入の十分の一を献げています」(ルカ18章11節~)。行いという点で見れば、立派と言うほかありません。
 他方、徴税人はユダヤ人を支配するローマ帝国に税金を貢ぎ、集めた税金の余分で私腹を肥(こ)やし、まさに「奪い取る者、不正な者」と見なされ、嫌われていました。そんな自分の生き方を、人前では強がっていても、神の前では、罪(つみ)だと認めざるを得なかったのでしょう。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈りました。「神様、罪人のわたしを憐(あわ)れんでください」(18章13節)
 たとえ話の最後に、主イエスは語ります。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)と。それは言い換えれば、徴税人の祈りこそ、神さまに喜ばれる祈りであり、神殿を「祈りの家」とする祈りだということです。
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 このたとえ話のはじめに、この話は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」(9節)に向けて語られていると書かれています。自分は正しい人間とうぬぼれている人間の代表がファリサイ派の人です。もちろん、あのようなあからさまな祈りをする人はまずいないでしょう。でも、心の中で自分は正しいと思い込んでいるのです。そして、同じように自分は正しいとうぬぼれているのが「祭司長、律法学者、民の指導者たち」でした。彼らは、神殿礼拝のやり方を正しいと思い込んでいるのです。献金はユダヤの貨幣で、献げ物は傷のない動物を、と律法で定められているのだから、そのための便宜を図るのは当然である。律法を守った上で、参拝者は喜び、商売人は生計を立て、神殿にも免許料として収入が入るのだから、良いことずくめではないか!と思っているのです。
 表向きは、それで正しいかも知れません。けれども、神さまに本当に献(ささ)げるべきものは何か。“内なる心”です。「打ち砕(くだ)かれ悔(く)いる心」(詩編51編19節)です。その心に問題はないか?過(あやま)ちはないか?、自分は正しいとうぬぼれているために、そのように自分に問いかけ、吟味(ぎんみ)する視点を持っていないのです。
 彼らが「強盗」と呼ばれる所以、それは“神の正しさ”を盗んでいるからではないでしょうか?正しさは神のものである、神さま以外に正しい存在はないのに、自分は正しいとうぬぼれ、自分の言動は神の御心に適(かな)って正しいと思い込み、自分の正しさを神の正しさにすり替えている。そのために独善的になり、他人を裁(さば)いている。それが、主イエスから「強盗」と呼ばれ、神殿が「強盗の巣」だと非難される所以(ゆえん)でしょう。
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 正しさとは神のもの、神さまのところにしかない。私たち人間が“正しい”と主張するものは相対的で、暫定的(ざんていてき)で、絶対ではない。そのことに気づいたら私たちの生き方は内省的(ないせいてき)になるでしょう。謙虚になるでしょう。寛容になるでしょう。それが祈りになる時、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という祈り以外にはないのです。
 そして、私たちは自分を主張するよりは、相手の言葉を聴(き)くようになるでしょう。人の言葉を受け止め、神の言葉に耳を傾けるようになるでしょう。聖書を通して語りかけられる「イエスの話」に「夢中になって‥‥聞き入る」(48節)ようになるでしょう。
 祈りとは一見、私たちが一方的に神さまに語りかけているように見えますが、実はそうではありません。祈りは神さまとの“対話”です。私たちが、自分の思いを神さまに申し上げるだけではなく、私たちも神さまが語りかける言葉を聴くのが祈りです。
もちろん、神さまの語りかけは直接、耳に聞こえるものではありません。聖書の御言葉から心に響いてくるものです。祈る時に、神さまは自分にどんなことを求めておられるのか、どんな答えを返してくれるのか、と考えてみる。そして、聖書の御言葉によって培(つちか)われた信仰という名の“センサー”で、神の言葉を、神の答えを探し当てる。すぐには見つからないかも知れません。だからこそ祈り続ける。探し続けるのです。
 真実を探している者を信じよ。真実を見つけた者は疑(うたが)え。フランスの小説家、アンドレ・ジイドはこう言いました。言い換(か)えれば、正しい人間だとうぬぼれているなら、それが他人であろうと自分であろうと、そこに真実はない。何が正しいかを問い、迷い、探し続ける人にこそ真実がある。本当の祈りがある、ということでしょう。
 そのような祈りが献げられる時、神殿は「祈りの家」となる。教会は「祈りの家」となる。私たち自身が、主イエスに喜ばれる「祈りの家」となるのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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