坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「人のものと神のもの」

2023年3月5日 受難節第2主日礼拝説教 
聖 書 ルカによる福音書20章20~26節
説教者 山岡 創牧師

20そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣(つか)わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。 21回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。 22ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法(りっぽう)に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 23イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。 24「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘(めい)があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、 25イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 26彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

 

「人のものと神のもの」
 今年も確定申告の時期がやって来ました。もちろん確定申告をする人もいれば、しない人もいます。私は、ふるさと納税をしていることもあり、確定申告をします。昨年は熊本県の長洲町と徳島県の海陽町に納税をし、有明のりとすだちをいただきました。
 私の場合、確定申告をすると、税金が少し戻って来て嬉しい気持になります。納税は国民の義務、納めた税金は何らかの形で国民の福利のために使われる‥‥とは分かっていても、喜んで、積極的に納税をしよう!という気持にはなかなかなれないというのが正直なところです。皆さんはいかがでしょうか?
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 新約聖書の時代のユダヤ人は喜んで納税をする気持になど全くなれませんでした。なぜなら自分たちを支配しているローマ帝国に税金を納めなければならなかったからです。
 当時のユダヤ人は、ローマ帝国との戦争に敗れ、独立国家を失い、支配されていました。自分たちは、天地を創造された唯一の神に選ばれた民族である。その誇りを持っているユダヤ人にとって、ローマ帝国に納税させられることは屈辱以外の何ものでもありませんでした。だから、本音を言えば、だれも税金など納めたくはなかったのです。
 その民衆の気持、民族の誇りを、ユダヤ人の指導者である祭司長、律法学者、長老たちは利用しようとしたのです。彼らは、神殿の運営を「強盗の巣」(19章46節)だと主イエスから否定され、境内(けいだい)での商売を妨害されたことに怒りを感じていました。それで、彼らは「何の権威でこのようなことをしているのか」(20章2節)と主イエスに詰め寄りました。けれども、反対に論破(ろんぱ)され、非難された彼らは、手を下そうにも民衆が主イエスを支持していたので手を出すことができません。そこで、まず民衆の支持を主イエスから失わせることを考えたのです。そのための材料が税金の問題でした。
 「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(22節)。指導者たちは、「正しい人を装う回し者」(20節)を遣わして、主イエスの言葉じりをとらえ、陥(おとしい)れようとしました。
 律法はユダヤ人が信奉する神の掟であり、心の支えです。この問いかけに、もし主イエスが、納税は律法に適っていると答えたら、民衆の多くが、そんなはずはない!と主イエスから離れ、支持しなくなるでしょう。そうなれば、主イエス、恐るるに足らず、となり、指導者たちはいつでも難癖(なんくせ)をつけて、主イエスに手を下すことができるようになります。
 では反対に、律法に適っていない、と答えたらどうなるでしょうか?それは、ローマ帝国への納税を否定したことになり、ローマの支配に反逆する意思のある人間として、「総督の支配と権力にイエスを渡し」(20節)て、主イエスを処罰してもらうことができます。つまり、どちらに転んでも指導者たちにとっては好都合な結果になるのです。
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 そのようなたくらみのある問いかけに、主イエスはお答えになりました。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(25節)。
 主イエスの中には、神殿を、まるで自分のものであるかのように好き勝手に運営し、「強盗の巣」にしている彼らに対して、神殿は神のものだ、神に返せという非難の気持があったでしょう。けれども、何が皇帝のものか、何が神のものか、主イエスはここで明言はしていません。
 では、皇帝のものとは何ですか?神のものとは何ですか?と改めて問われたとしたら、それを決めるのはあなただ!自分でよく考えなさい、と主イエスは言われたことでしょう。他人任せでは、主体的な、責任のある生き方はできません。
 そしてそれは信仰においても同じこと、いや、神を信じる信仰を自分のアイデンティティとして生きている者にとっては、それ以上の大切な問題でしょう。神のものとは何か?何を神に返して生きるか?それは、神の言葉をヒントにして、ガイドとして、自分で考え、行動し、生きるべきことでしょう。きっと具体的な答えは十人十色です。
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 言うなれば、この世のすべてをお造りになったのは神さまなのですから、この世のすべては「神のもの」ということになるでしょう。ただ、旧約聖書・創世記の冒頭で、私たち人間は、地上とそこに生きるものを従わせよ、支配せよ、とその運営、管理を任されています。言わば、神さまからそれらを貸し与えられていると言うことができます。
 では、私たち人間はどうでしょう?神さまに造られたという意味では「神のもの」です。でも、私たちは意思や人格のない“モノ”ではありません。ロボットのように神さまに操縦されるような存在ではありません。エデンの園で、神さまの意思に反して禁じられた木の実を食べてしまうような自由さえ与えられている人間です。そのような私たちが、自分を神さまにお返しするとは、どのように生きることでしょうか?
 「神のもの」ということを考えていて、ふと、宗教改革者マルチン・ルターが書いた『キリスト者の自由』を思い起こしました。
 キリスト者は、あらゆるものの最も自由な主であって、何ものにも従属していない。
「神のもの」であるとは、自由であるということです。言い換えれば、それは神さま以外のものにならない、ということです。神さま以外のだれかに従属したり、何かに支配されたりしない。しなくて良い、ということです。
 もちろん、私たちは、この世のルールの中で、常識や慣習を参考にしながら、また他人の考えや価値観、言葉をヒントにしながら生きています。けれども、ともすれば、それらに縛(しば)られ、流され、支配されて、不自由に生きていることが少なからずあるのではないでしょうか。何ものにも従属しない自由な主体性を失ってしまうのです。自分自身で何が大切かを考え、決断し、行動する。その自由な主体性こそ「神のもの」として生きるということ、主イエスが望んでおられることではないでしょうか。
 もう一つ、思い起こす言葉があります。ヒップホップ(ラップ)で、〈SUKIKATTE(好き勝手)〉という曲の1節です。

  俺らやりたいことやる やめたいことやめる 疑問の余地なし お前もだろ?
  この原則破れば 自分じゃなくなる 他人任せでは 迷子だろ?

単に自分勝手でも無責任でもなく、やりたいことやる、やめたいことやめる、という自由を失ったら、他人任せで迷子になっていたら、それは「神のもの」ではなく、“何かのもの” “だれかのもの”になって、自分らしく生きていないということになるでしょう。
 自由と責任を持って主体的に生きる。そこに“愛”があれば言うことなしでしょう。それが「神のもの」を神に返す、「神のもの」として生きるということだと私は思います。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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