坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「信仰がなくならないように」

2023年3月12日 受難節第3主日礼拝説教          
聖 書 ルカによる福音書22章31~34節
説教者 山岡 創牧師
31「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 32しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 33するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 34イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏(にわとり)が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
「信仰がなくならないように」
 ワームウッドくんに。けしからんことに、やつはクリスチャンになってしまったんだね。‥‥‥(しかし)絶望するには当たらない。成人してからクリスチャンになった人間で、〈敵〉の陣営にほんのしばらく滞在したのちに、われわれの側に取り戻された者が何百人となくいるのだから‥‥。これは、スクルーテイプという悪魔が、同じく悪魔である甥(おい)のワームウッドに送った手紙の1節です。人を誘惑し、信仰を失わせるために、ベテランの叔父(おじ)が駆け出しの甥に、アドバイスの手紙を何通も送る。イギリス人作家、C.S.ルイスが書いた『悪魔の手紙』(平凡社、19~20頁)という本の内容です。

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 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)。最後の晩餐(ばんさん)の席上で、主イエスは、悪魔(サタン)が弟子たちを誘惑し、信仰を失わせようとしていると、シモン・ペトロに告げました。
「ふるい」とは、底に網目の付いている入れ物で、粉を入れ、振ることによって細かい良質の粉と不純物を選り分けるための道具です。悪魔が“誘惑”“試(こころ)み”という名のふるいにペトロら弟子たちを入れてふるい落とし、信仰を失わせようとしているのです。
サタン(悪魔)というものは実態のある存在ではありません。けれども、苦しみや悲しみ、困難な出来事を通して、私たちの心に働きかけ、神さまから引き離し、信仰を失わせようとする働きを、聖書はサタンと呼びます。別の言い方をすれば、神さまを信じようとせず、ネガティブな生き方へと向かう私たちの思考回路そのものを、サタンと呼んでもいいかも知れません。
それにしても、神さま、どうしてサタンのそんな願いを聞き入れるんですか?と思わずにはいられません。けれども、旧約聖書・ヨブ記の冒頭にはこんな話があります。
ヨブという「無垢(むく)」で「正しく」、「神を畏(おそ)れ、悪を避けて生きてい」る人がいました。ある時、天の上で神さまと天使たちの会議が行われます。そこにサタンも列席していました。神さまは、地上を巡回してきたというサタンに、ヨブほど信仰深く、正しい人間はいまい、とほめちぎります。するとサタンは、それはあなたがヨブを祝福して、多くの財産や家族、子孫を、また健康を与えているからですよ。それを失わせてごらんなさい。ヨブはあなたを呪うでしょう、と皮肉っぽく答えます。神さまはヨブを馬鹿にされて悔しかったのでしょうか、それならやってみろ!とサタンの挑発に乗ってしまいます。それでサタンは、ヨブの財産を奪い、家族の命を失わせ、またヨブ自身を重い皮膚病で苦しめます。すると最初は忍耐して信じていたヨブも遂に、神さまを呪い、神さまが間違っていると不平不満を漏らすようになっていくのです。
このサタン、実は天使の一人です。サタンとは、地上を巡回するパトローラーという意味なのです。本来決して、神さまと対立するようなものではありませんでした。それがいつしか時代と共に、神さまと対立する“悪”の存在と見なされるようになりました。
一つ言えることは、私たちの人生には幸福や良いことばかりではなく、苦しみ悲しみ、困難があるということ。そしてそれらは、神さまを信じて生きている私たちに、その信仰を失わせるような力と可能性があるということでしょう。けれども、苦しみや困難も神さまの許しで起こるのだとしたら、そこには必ず大切な意味があると信じたいのです。
シモン・ペトロもそうでした。「御一緒になら‥‥死んでもよい」(33節)と断言したペトロです。けれども、主イエスが予言されたとおり、対立する宗教指導者たちに主イエスが捕らえられた後で、ペトロも尋問され、「わたしはあの人を知らない」(22章57節)と3度、主イエスの弟子であることを否定してしまいます。主イエスの逮捕、そして尋問という出来事に、ペトロは恐れと保身のため信仰を無くしてしまうのです。
そしてそれは私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。苦しみ悲しみ、困難な出来事から神を疑うだけではありません。保身のために、あるいは神さま以上の楽しみができて信仰がくだらなく思えたり、欲望から自分の利得(りとく)や名誉、財産等を優先して、信仰を失ってしまう、捨ててしまうことがあるのです。
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 けれども、そのようなペトロのために、「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」(32節)と主イエスは言われました。ペトロ、お前なんかもう弟子でも何でもない、と否定し、捨てて、呪わないのです。ご自分を見捨て、呪いさえするペトロを心にかけて、祈ってくださる。どんな苦しみや悲しみに遭(あ)っても希望と慰めを失わないように、どんな困難に遭っても感謝を失わないように、どんな恐れに遭っても勇気を失わないように、どんな楽しみや利得を見つけても、命の原則と道を見失わないように、神を信じる信仰を失わないように祈ってくださっているのです。それが天の父なる神の願いであり、ペトロを支える“愛”以外の何ものでもありません。
 そして、その愛と祈りは、現代の弟子、現代のクリスチャンである私たちにも、一人ひとりに注がれています。私たちもまた、信仰を失いそうになることがあります。いや、無くしたと思う時があります。主イエスを裏切ったと思う時があります。教会から離れる時があります。その時には気づきもしないでしょう。でも、主イエスはそんな私たちを捨てず、信仰がなくならないように祈ってくださっている。神さまは、ご自分の愛のもとに戻って来ることを願っておられる。その愛と祈りを信じることが信仰です。つまり人生はどんな時も祝福の内に、喜びと希望に満ちていると信じることこそ信仰です。
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 私たちは主イエスの祈りによって、神の愛によって、何度でも信仰の道に立ち帰る。信仰の喜びに復活することができます。そして、私たちにはそれぞれ、心にかかる人がいるのではないでしょうか。今、信仰を無くしているような人、教会から離れている人で、心にかかる人がいるのではないでしょうか。あの人の信仰はもうだめだと見捨ててはなりません。主イエスが、“私”のために祈ってくださっているように、“その人”のためにも祈っておられます。だから、私たちもその人のために祈りましょう。心にかかる“だれか”のために祈りましょう。祈り続けましょう。
そして、その人が信仰に立ち直ったなら、教会に帰って来たなら、喜んで受け入れ、“だいじょうぶだよ。間に合わない悔い改めはないから”と力づけ、共に祈る者となりましょう。そこに“愛”があります。主イエスの喜ばれる交わりが、神の愛の下に立ち直ることのできた信仰の交わりがあります。

 

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