坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神の『御心のままに』を信じる」

2023年3月19日 受難節第4主日礼拝説教          
聖書 ルカによる福音書22章39~46節
説教者 山岡 創牧師
39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 42「父よ、御心(みこころ)なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴(したた)るように地面に落ちた。〕 45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧(ごらん)になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
「神の『御心のままに』を信じる」
 「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)。主イエスは、最後の晩餐(ばんさん)の席からオリーブ山に赴(おもむ)きます。そして、ご自分が祈られる前後で2度、伴われた弟子たちに、このように言われました。それだけ大切な教えであり、言わば主イエスの“遺言(ゆいごん)”です。
「誘惑」とは何でしょうか?私たちの人生に起こる苦しみや悲しみ、困難な出来事のことでしょうか?いいえ、そうではありません。誘惑とは、私たちを信仰から引き離そうとする作用です。言い換えれば、人生を信じて喜びや希望を期待するポジティブな心を失わせようとする働きです。だから、誘惑とは苦しみや困難といった私たちの外側にある出来事そのものではありません。誘惑は私たちの内側にあります。つまり、誘惑に陥るか否かは、自分がその出来事をどのように受け止めるかにかかっているのです。
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 主イエスご自身も、この時、誘惑にさらされていたと言うことができます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。主イエスは独りで、このように祈りました。
 「この杯」とは、十字架に架(か)けられる苦しみと死を表しています。信仰とその生き方を巡って、主イエスとユダヤ教の指導者たちとは対立しました。そのためにイエスに腹を立て、煙たく感じた彼らは、イエスを亡き者にしようと企てました。その企ての網が次第に絞られ、早晩(そうばん)、ご自分が捕らえられ、十字架刑にされる宿命を、主イエスは感じ取っていたのです。それは主イエスにとって、できることなら避けたい宿命、逃れたい苦しみでした。
 けれども、主イエスの十字架は同時に、父なる神の「御心」でもありました。ご自分の愛する独り子イエスに、すべての人の罪を負わせ、その命の犠牲によって罪を贖(あがな)い、人を根本的に赦(ゆる)し、受け入れる“愛”を、父なる神は十字架において示そうとされたのです。主イエスもまた、イザヤ書など旧約聖書を通して、それが神の御心であることを悟っておられました。
 とは言え、十字架に架けられる死は苦しく辛い。だから、主イエスは自分の「願い」と神の「御心」の間で葛藤(かっとう)し、このような祈りをなさったのです。
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 神さまを信じて生きようとする人は、程度の違いこそあれ、自分の願いと神の御心の間で葛藤することがあるのではないでしょうか。信仰とはこの葛藤があることです。御心に従うことはその結果です。信仰を持たない人は神と自分の狭間(はざま)で葛藤さえしません。
 だから、自分の願いを祈るのは大いに結構。それが、心から湧き出る自然な祈りでしょう。自分の願いを祈らずに、最初から「御心のままに行ってください」などと物分かりの良い祈りなんてしなくていいし、そもそもそんな祈り、私たちにはできないのです。「この杯をわたしから取りのけてください」と素直に祈ってよいのだと思います。
 けれども、私たちの人生は、願い通りにいかないことの方がはるかに多いでしょう。だから、それらは苦しみ悲しみとなり、困難なものになります。大切なことは、祈った後でその結果をどのように受け止めるか、言い換えれば現実の出来事をどのように受け止めるかです。それによって誘惑に陥るかどうかが別れるのです。
 自分にとって不都合(ふつごう)で辛い苦しみや悲しみ、困難を、神は私の祈りを聞いてくださらなかった。神を信じることなんて無意味だ、とあきらめ、人生に絶望し、ネガティブに受け止めて生きるとしたら、それは暗く、不幸な人生になります。「誘惑」に陥っています。私たちを信仰からふるい落とそうとするサタン(22章31節)の思うつぼです。
 けれども、同じような苦しみや悲しみ、困難な出来事に見舞われても、そのような絶望的な態度、ネガティブな生き方にならない人もいます。その人は、自分にとって不都合な辛い出来事であっても、神の「御心」が行われたと信じて忍耐します。神さまのなさることに無駄なこと、無意味なことはないとポジティブに信じて、その出来事に込められた大切な意味と生きる目的を見つけようとします。比較的早く見つかるかも知れないし、長い年月を苦しみ、忍耐しなければならないかも知れません。けれども、神を信じる信仰がその人を慰(なぐさ)め、支えます。心を深め、内側を掘り下げていきます。そして、深く掘り下げた心の底で、その人はきっと、自分の人生にしかない固有の、救いの光を見出すでしょう。苦しみがその人の信仰をも深く掘り下げるのです。
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 人生において苦しみや悲しみ、困難な出来事を避けて通ることはできません。だから、それらの辛い出来事に遭(あ)わせないでくださいと祈るのは、人生の理にかなった祈りではありません。とは言え、実際、そのような出来事に直面した時、あきらめず、虚しさに陥らず、絶望せずに生きるのは容易なことではありません。私たちはいとも簡単に虚無(きょむ)と絶望に陥りそうになります。そうならないために、どうすればよいのでしょうか。
だからこそ「祈りなさい」と主イエスは言われるのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われるのです。辛い出来事に遭わせないでください、と祈るのではなく、たとえ辛い出来事に遭っても、誘惑から導き出して悪からお救いください、と祈りなさいと言われるのです。ご自分が「いよいよ切に‥‥、汗が血の滴るように」(44節)祈られたように私たちにも、真剣に祈りなさい、と語りかけておられるのです。
そして、そのような真剣な祈りの先で見いだす恵みがあります。その恵みを、H.S.クシュナーという人は、次のように語っています。
絶望に打ちひしがれていた時、あなたは祈りの中で心を開いたのです。そうしたら、いったい何が起こったでしょう?確かに、悲劇が回避されてしまうような奇跡を見ることはありませんでした。しかしあなたは、あなたのまわりにいる人々を発見しましたし、あなたのそばにいる神を発見しました。そして、悲劇にもめげずに生き抜く力強さを、あなた自身の中に発見したのです。これこそ、祈りが答えられたことの証しではないでしょうか。(『なぜわたしだけが苦しむのか 現代のヨブ記』より)
 自分の力では悲劇に打ち克(か)ち、誘惑に陥らずに生きることはできません。だからこそ、私たちは神さまに祈ります。そしてその祈りの中で、自分を支えてくれる“愛の人”を見つけます。自分のそばにいて導き、励ましてくださる“愛の神”に気づきます。そのような人の愛、神の愛に支えられ、生かされていることに気づくからこそ、自分の内側にある“生き抜く力強さ”を再発見することができるのではないでしょうか。祈りとは、この世の苦しみに打ち砕(くだ)かれた“魂”において、今まで気づかなかった愛と希望と勇気を見いだす“救いの道”なのです。

 

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