坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「考え、迷い、悩む」

2023年3月26日 受難節第5主日礼拝説教         
聖 書 ルカによる福音書22章54~62節
説教者 山岡 創牧師

54人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。 55人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。 56するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。 57しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。 58少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。 59一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。 60だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏(にわとり)が鳴いた。 61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 62そして外に出て、激しく泣いた。
「考え、迷い、悩む」
 3月6日(月)9時50分、私は羽田空港を出発しました。飛行機に乗るのは10数年ぶりのことです。行先は高知空港です。4月からの就職のため高知県に転居する次男のアパート探しや家具、家電を購入するための、一泊二日の旅でした。
 約一時間余りのフライトの間、窓際の席からずっと地上を見下ろしていました。とても楽しい時間でした。なぜなら同じ場所、街、地域でも空の上から見ると、地上に立って見ている風景とは全く違って見えるからです。上空から大きな地図を眺めている気分でした。
ところで、視点の変化によって同じものでも違って見えるようになるのは、風景や物質的な世界だけのことではありません。精神的な視点の変化によっても、人生に見える意味は大きく変わって来ます。聖書の御言葉(みことば)は人生と信仰の見方を全く変えることがあります。
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 「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章31節)。2週間前の礼拝で耳を傾けた御言葉です。今回この言葉が、ペトロに対する私の見方を、そして人生と救いの捉え方を変えました。
 ペトロ。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22章32節)と主イエスに向かって断言した男。しかし、主イエスが捕らえられた後で、「わたしはあの人を知らない」(57節)と3度、主イエスとの関係を否定した男です。主イエスの弟子だと認めたら、自分も主イエスと一緒に処刑されるかも知れない。死が現実に迫って来た時、ペトロは恐れ、そう言ってしまいました。
 このペトロの行動を、私はどちらかと言えば否定的に捉(とら)えて来ました。つまり、信仰生活におけるマイナスであり、“汚点(おてん)”です。主イエスの十字架の死によって、私たちが罪過(ざいか)を犯しても赦(ゆる)される恵みを私たちは知っており、信じていますが、だからと言って、その赦しの恵みに甘えてはならない。そうならない方が良いに決まっている。まして主イエスとの関係を否定するなんて‥‥。そう考えているところがありました。
 けれども、では主イエスは果たしてペトロのことを、そのように見ているのでしょうか?違うのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(22章34節)。最後の晩餐(ばんさん)の席で、「ご一緒になら‥」と豪語するペトロに、主イエスはこう言われました。とは言え、その言葉は“ペトロ、お前は信仰失格だ”と否定する言葉ではありません。そのようなペトロの行動も織り込み済みで、「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った」と言われるのです。三度、関係を否定することで、信仰がなくなりそうになるかも知れない。信仰の灯が消えそうになるかも知れない。自分で自分のことを“もう弟子失格だ”と絶望するかも知れない。そんなペトロのことを、主イエスは否定せず、受け止めてくださっているのです。だいじょうぶ。あなたの信仰は無くなってはいないよ。小さくなっても灯は燃えている。わたしはそんなあなたのことを愛して、受け入れている。あなたは必ず復活する。立ち直ることができる。わたしはいつも、あなたのことを信じて祈っているから‥‥‥。それがペトロを、そして私たちを見る主イエスの見方だと思ったのです。
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 そして主イエスの目でペトロを見ると、その行動が全く違うものに見えてきます。主イエスが捕らえられ、逮捕の首謀者である大祭司の家に連れて行かれた時、「ペトロは遠く離れて従った」(54節)のです。「遠く離れて」というところに注目すると、信仰が弱く消極的だなぁ、逃げ腰だなぁ、と思うかも知れません。でも、従っています。どうしようか迷ったかも知れない。でも、主イエスのことを気にかけて、ついて行っています。
中庭にいる人々から疑われた時、「わたしはあの人を知らない」と否定したペトロが、信仰を捨てたように見えるかもしれない。でも、ペトロは葛藤(かっとう)し、何と答えようか悩んだのではないでしょうか。即答のように見えますが、そうではなかったと思います。その葛藤の末に、「わたしはあの人を知らない」と言ってしまったのです。
鶏が鳴いて、主イエスの言葉を思い出し、ペトロは「激しく泣いた」(62節)と書かれています。泣いたってもう遅いのでしょうか。いいえ、もし主イエスへの思いがなかったら、信仰がなかったら、心が痛むことはありません。激しく泣くこともありません。「あの人を知らない」と口では言っても、心が知っている。その愛をひしひしと感じている。ペトロの心の内では今なお信仰が生きている。無くなってはいないのです。
ペトロは主イエスを思い、悩み、迷っています。それを主イエスは“信仰”として認めてくださる。無くならないようにと祈ってくださる。いつか立ち直ることを信じて待っていてくださる。その信頼と愛に気づいた時、ペトロは立ち直るのです。
だれがペトロを責めることができるでしょう。私たちの信仰も無くなりそうになります。疑いたくなります。主イエスから、教会から離れることもあるでしょう。でも、主イエスはそんな私たちを受け入れてくださっています。その愛と祈りに包まれていることに気づいたら、私たちの信仰も立ち直れます。人生が喜びと感謝に復活します。信仰失格ってことはありません。間に合わない悔い改めはありません。
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 鶏が鳴いた時、「主は振り向いてペトロを見つめられた」(61節)とあります。カトリックの小説家であった遠藤周作氏の『沈黙』を思い起こしました。江戸時代、伝道に燃えて日本にやって来た司祭ロドリゴ。やがて彼は捕らえられ、踏み絵の前に立たされます。ただでは決して踏まないことを知っている役人は、お前が踏めば、あそこで拷問(ごうもん)されているキリシタンたちを助けよう、と揺(ゆ)さぶります。踏み絵のキリストは、悲しげな眼差(まなざ)しで見つめ、涙を流しているようにロドリゴには見えました。葛藤の末に彼は踏み絵を踏みます。信仰に転(ころ)びます。鶏が遠くで鳴いた、と小説に記されています。
 でも、ロドリゴがキリストの顔を踏んだその時、主は彼にこう語りかけました。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
(『沈黙』遠藤周作、新潮文庫、219頁)
ペトロを見つめる主イエスのまなざしは、ペトロにはどのように見えたでしょうか。その時は自責の気持から、自分を責めるまなざしに見えたかも知れません。けれども、後で主イエスの祈りを思い出した時、あの時のまなざしは、自分を愛し、受け入れ、赦しているまなざしだったのだと気づき、感謝と涙にあふれたに違いありません。私たちにも注(そそ)がれている神さまのまなざしは常に、祈りと愛と信頼のまなざしです。私たちの人生は、いつ、どこで、どんなものであっても、神の愛と祈りと信頼によって生かされてある。支えられている。そう信じることができたら、人生はどんなに幸いでしょうか。

 

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