坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「主イエスを捜し当てる場所」

2023年4月9日 復活祭イースター主日礼拝説教         
聖 書 ルカによる福音書24章1~12節
説教者 山岡 創牧師

復活する 1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言(ごと)のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布(あまぬの)しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
「主イエスを捜し当てる場所」
 平野克己氏という牧師がいます。神学校時代の私の3年先輩で、当時はよく一緒にサッカーをしました。現在は東京・代田(だいた)教会の牧師であり、学者でもあります。この先生が、2021年度の『信徒の友』というキリスト教雑誌に毎月、使徒信条についての解説を書かれました。その11月号で、25歳の時、恩師であり、85歳になる大村勇牧師が初めてイスラエル旅行をなさるのに付き添った経験を書いています。
エルサレムで、“ヴィア・ドロローサ”と呼ばれる道を歩いた。主イエスが十字架を背負って歩いた道です。その道の終着点は、主イエスが十字架から降ろされ、埋葬された墓穴です。もちろん墓穴は空です。しかし、そこには聖書の言葉を刻んだプレートが壁に打ち付けられていました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5~6節)。そのプレートを読む大村先生の手は小刻みに震えていた、といいます。主の墓穴で読む御言葉は、理屈抜きに信仰者を感動させるのでしょう。私もヴィア・ドロローサを歩き、墓穴を見たくなりました。
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 新約聖書は、その福音の核心として、主イエスの復活を語ります。けれども、私たちは復活がなかなか信じられませんし、それがどのような内容なのか理解することができません。それは無理もないことです。と言うのも、主イエスに従って生きた当時の弟子たちでさえ、婦人たちが告げる主イエスの復活が「たわ言のように思われたので、‥‥信じなかった」(11節)と記されているからです。もしかしたら皆さんの中にも“復活なんて、たわ言だ”と思っている方がおられるかも知れません。もちろん、それでもかまわないのです。復活を信じることは決して簡単なことではありません。
 ただ、最初は「たわ言」だと思っていた弟子たちが、後に主イエスの復活を信じて、それを宣(の)べ伝え、教会を生み出し、命さえ懸(か)けるように変えられたということを無視することはできません。そこには、彼らを信じさせるに足る“何か”が起こった、確かなリアリティーがあったに違いない。その何かを経験し、感じることができたら、私たちの信仰も変えられるはずです。
 では、そこに何があったのか?何が起こったのか?福音書は、復活した主イエスが弟子たちに“現れた”ことだけを語ります。説明一切なし。まるで主エスが生きておられた時と同じように、生き返られたかのように現われ、語りかけ、食事を共にし、再び宣教に遣(つか)わされたと語っているのです。いったいどういうことなのでしょうか?
 復活とは蘇生(そせい)ではありません。一度死んだ人間が再び生身の体に生き返ることでもありません。復活した主イエスはその後、死ぬまで生き続けたわけではなく、40日後に天に昇られたと使徒言行録には記されています。聖書も、復活を蘇生とか生き返りとは考えていないのです。全く別次元の出来事なのです。
 それなのに、まるで主イエスが生き返って現われたかのように書いている。それは、それだけ主イエスの復活が弟子たちにとってリアルだったということを表しているのでしょう。ただし、その出来事を、経験を、口で言い表し、言葉で説明することができないのです。神さまが世界の歴史の中でただ一度行われた偉大なる出来事は、私たち人間の経験や知識によって説明することはできないのです。
 でも、弟子(使徒)たちが行ったことがあります。それを平野先生はこう書いています。
それは復活を説明するのではなく、証言することでした。そして、主の復活の命を~たとえ不器用(ぶきよう)にではあっても~実際に生きていったのです。(『信徒の友』21年11月号) 
 主イエスの復活の命を、御言葉を心に納めて、不器用なやり方であっても生きてみる。そして、感じ取ったことを証言する。なぜ、何のためにそのようなことをする必要があるのでしょう?それは、新約聖書に多くの手紙を遺したパウロが「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」(Ⅰコリント6章14節)と書いているように、私たちも復活の喜びを、慰(なぐさ)めを、希望を味わうためです。
 それは自分が死んで天国に行ってみなければ分からない、味わえないものかも知れません。けれども、“メインディッシュ”は確かに天国ですが、信じて生きようとする人は今、この世において、復活の“前菜”を味わうことができるのです。
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 『まだ暗いうちに』(Forest Books)という表題の、中村佐知さんと言う方が書かれた本を思い起こしました。スキルス胃がんのため娘・美穂さんを21歳で失った中村さんが、その後の4年間の気持と生活をつづったグリーフワークがその内容です。ちなみに、「まだ暗いうちに」という表題は、アメリカのナディア・ボルツ・ウェバーという牧師が、ある作家の葬儀の際に語った説教から借りたものだということです。それは、主イエスが復活した早朝に、婦人たちが墓に向かった時に記されているヨハネ福音書20章1節の御言葉から取ったものだと中村さんは後書きで書いています。
 ボルツ・ウェバーは「神がもっともすばらしいみわざをなされるのは、まだ暗いうちなのです」と言いました。イエスが墓からよみがえられたのは、日が昇る前のまだ暗いうちでした。神は、夜が明けてから活動を開始なさるのではなく、まだ暗いうちに動き始められるのです。暗闇(くらやみ)の中では私たちにはほとんど何も見えませんが、見えないからと言って、そこで何も起こっていないわけではないのです。(前掲書(ぜんけい)290頁)
 ウェバーは、暗闇の中でも、そこで働いておられる神を見る視力を“ナイトヴィジョン”と呼びました。自分が暗闇の中にいる時、目をこらして神を探すことによって養われる“信仰の視力”です。中村さんは、美穂さんが末期ガンを宣告されてからの私の日々は、このナイトヴジョンを養うための期間なのかも知れないと思い至ったと言います。そして、次のように書いておられます。
 死別の悲しみや痛みだけではありません。なぜ自分がこんな目に遭(あ)うのか?という思いがけない試練や、そのほか人生で遭遇(そうぐう)するさまざまな闇の中でも、ナイトヴィジョンによって、そこにおられる神の気配、御手のわざ、神の招きを見ることができたら、どれほど幸いでしょうか。そこには、今はただ苦しみ抜かなくてはならない、産みの苦しみのような、もがきやうめきもあるかもしれません。しかし、その苦しみは、やがて来たるべきものを見ることになる希望、そしてそれを待つ間にも、主の守りと導きがあると知る感謝と喜びにとって代わられます。(前掲書290~291頁)
 中村佐知さんの歩みは、主イエスの復活の命を実際に生きようとして、そして証言した人の姿だと思います。そして私たちにも、復活の命を味わうには、たぶんそれしかありません。でも、そのように生きてみる、捜(さが)し求めてみる価値があります。少なからず暗闇に覆(おお)われる人生において、希望と慰めと喜びの光が見えるようになるからです。

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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