坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「見えないけど見えるもの」

2023年4月16日 主日礼拝説教         
聖 書 ルカによる福音書24章13~32節
説教者 山岡 創牧師

◆エマオで現れる 13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長(さいしちょう)たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望(のぞみ)みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚(おどろ)かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体(いたい)を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現(あらわ)れ、『イエスは生きておられる』と告(つ)げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾(かたむ)いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂(さ)いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
「見えないけど見えるもの」
 青いお空のそこふかく 海の小石のそのように 夜がくるまでしずんでる
 昼のお星は目に見えぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ
(金子みすず、詩「星とたんぽぽ」より)
 今から約100年前に生きた詩人・金子みすずさんの『星とたんぽぽ』という詩の一部です。今日の聖書の御言葉を黙想しながら、特に「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)という御言葉から、この詩を思い起こしました。十字架に架けられて死んだ主イエスの姿が、どうして二人には見えていたのだろう?それが主イエスだと分かった瞬間(しゅんかん)に、それまでは見えていた姿がどうして見えなくなったのだろう?‥‥‥そんな疑問を思い巡(めぐ)らしている時、この詩を連想したのです。そして、昼のお星のように、確かに主イエスは、見えぬけれどもある、見えぬものでもある、そういう存在だと思いました。
 ただし、昼のお星は見えぬけれどもある、ということを私たちは、現代の科学的知識から知っています。けれども、主イエスによって示される“神”は、そのような知識によって知ることができる存在ではありません。主イエスが、見えぬけれどもおられ、自分を愛し、語りかけ、計(はか)らってくださるその働きを見るには、人生に対する感性が、“信仰のセンス”が必要です。きっと金子みすずさんも、星とたんぽぽを通して、そのような、心のセンスで見る何かに思いを向けていたのではないかと思います。
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 クレオパともう一人の弟子が「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた」(21節)主イエスが、十字架に架けられて処刑されました。だから、二人が「暗い顔をして」(17節)歩いていたとしても無理もありません。絶望し、大切なものを失って胸にポッカリと穴の空いたような虚(うつ)ろな気持だったのでしょう。
 そのような二人のもとに、復活した主イエスが現れ、「近づいてきて、一緒に歩き始められた」(15節)のです。二人とのやり取りから想像すると、主イエスは二人と並んで歩かれたように思われます。けれども、私は先日の聖書と祈りの会で、出席された方が話してくださった遠藤周作氏の言葉を思い起こしました。
 カトリックの作家であった遠藤周作氏は、主イエスという方を、自分の後ろからトボトボとついて来るような存在だと語ったそうです。信仰を捨てよう、教会から離れよう。そう考えているのに、主イエスが離れてくれない。放(はな)してくれない。かと言って、自分を責めるわけではなく、自分を力強く捕(つか)まえるわけでもなく、ハラハラと心配するかのように、後ろから見守りながら、トボトボとついて来る。そのような主イエスを感じたからこそ、自分は信仰に踏み留(とど)まった、立ち直ったと遠藤周作氏は著書に書かれたようです。なんか分かる~。イエス様って、そういう方だよね‥‥私もそう思いました。
 この時、二人の弟子もエルサレムからエマオへ向かって歩いていました。主イエスから、信仰から離れようとしていました。そんな二人の暗い後ろ姿を見ながら、“おい!行くな。戻れ。頼(たの)むから信仰から離れるな‥‥”、最初はそんな思いで、祈るように主イエスは二人の後について行ったのかも知れません。
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 暗い顔をしていた二人は、人生の暗闇(くらやみ)の中を歩いていたと言うことができるでしょう。けれども、十字架で死んでいないはずの主イエス、見えないはずの主イエスが共に歩き、食卓を共にしてくださったことで、暗闇の中で主イエスが見えるようになったのです。
 先週のイースター礼拝で、21歳の娘をガンで失った中村佐知さんという方の著書『まだ暗いうちに』(Forest Books)の中から、ナディア・ボルツ・ウェバーという牧師の葬儀(そうぎ)説教の一節を紹介しました。“神がもっとも素晴しいみわざをなされるのは、まだ暗いうちなのです”。その言葉をもう少し、ご紹介したいと思います。
 神がなぜこのような形で働かれるのか、分かりません。
 私たちがまだ絶望に沈んでいるとき、まだ嘆(なげ)き悲しんでいるとき、
 まだ罪人であるとき、これから良いことは何も起こらないと確信しているとき、
 死がもたらす虚無に直面するとき ― 
 そのときにこそ、私たちは復活にもっとも近づくのです。
 神がもっとも素晴しいみわざをなされるのは、まだ暗いうちなのです。(同書251

 頁)
十字架刑から三日目の日曜日、「まだ暗いうちに」(ヨハネ21章1節)、神さまは主イエスを復活させました。だから、そのみわざを、肉眼で見た者はだれもいないのです。でも、まだ暗いうちに主イエスを復活させた神のみわざを信じるセンスを、言い換えれば、人生の暗闇の中で、神の気配を、御手の働きを、神の招きを感じ取り、見る目を、ウェバー牧師は“ナイトヴィジョン”と呼びました。言うなれば、クレオパともう一人の弟子は、絶望と虚しさという暗闇の中で、このナイトヴィジョンを手に入れたのだ、と言うことができるでしょう。だから、見えないはずの復活した主イエスが見えたのです。神の慰めと希望が、自分の人生の中に見えたのです。
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 もちろん、最初から見えていたわけではありません。二人は最初、自分の見方で解釈した主イエスの十字架刑を、暗い顔で、絶望的に語っていたのです。“希望なんてない!神も仏もあるものか!”と打ちひしがれていたのです。それなのに、どうして途中で、神さまの目で物事を見るナイトヴィジョンを得ることができたのでしょうか?
 それは、主イエスが語りかける聖書の説き明かしに耳を傾(かたむ)けたからです。自分自身のネガティブな人生解釈は心の隅に置いて、“この出来事にはこういう恵みが隠されている。あなたの人生には、こんな良い目的が込められている”と語りかける説明を、信じて受け入れたからです。聖書の御言葉に耳を傾け、受け止めながら、主イエスと食卓を共にする。礼拝を共に守り、賛美し、御言葉を聴き、聖餐(せいさん)に与(あずか)ることで、暗闇の中で神の恵みのみわざを見る信仰の目、ナイトヴィジョンが培われていったからです。
 復活した主イエスに気づいて、逆に主イエスの姿が見えなくなった後で、二人は、「わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)と語り合いました。心が燃えるとは、慰(なぐさ)めを感じ、喜びを感じ、希望を感じることです。少なからず暗闇に見舞われる人生において、御言葉を“導きの光”として、祈りながら歩むなら、きっと主イエスが復活し、今も私たちの心に働きかけてくださることが信じられるようになります。慰めが、喜びが、希望が感じられるようになります。長い時間を、忍耐しなければならないかも知れません。でも、その先できっと、共におられる主イエスが見えるようになります。

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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