坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「心の目を開いて」

2023年4月23日 主日礼拝説教         
聖 書 ルカによる福音書24章36~49節
説教者 山岡 創牧師

◆弟子たちに現(あらわ)れる 36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑(うたが)いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触(さわ)ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟(さと)らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦(ゆる)しを得させる悔(く)い改(あらた)めが、その名によってあらゆる国の人々に宣(の)べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆(おお)われるまでは、都にとどまっていなさい。」
「心の目を開いて」
 「あなたがたに平和があるように」(36節)そう言って、復活した主イエスは弟子たちの真ん中に立たれました。その姿に、弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(37節)といいます。無理もありません。確かに、その姿は目に見えていたのでしょう。でも、どう考えても信じられないのです。
 分からん!主イエスの復活は、どう考えても私たちの知識や経験では解釈の仕様がありません。十字架に架けられて死んだはずの主イエスが目の前にいる。仮死状態からの蘇生(そせい)ではありません。死んだ状態から生き返ったというのとも違います。では、何が起こっているのか?分からないのです。ただし、主イエスは弟子たちに、「触ってよく見なさい」(39節)と言われ、焼いた魚を食べました。だから、そこには“体(からだ)”があるのです。手で触れることができ、食べ物を食べることができる体があるのです。では、どんな体なのでしょう?分かりません。私たちの理解を越えています。
 この体について、パウロは、コリントの信徒への手紙(一)15章で、「天上の体」(40節)「霊の体」(44節)だと言いました。地上の体、肉の体があるのだから、一度死んで復活した後には、天上の体、霊の体があるはずだと考えたのです。
 それがどんな体なのか、もちろんパウロも理解していたわけではありません。ただパウロは、地上で命を生きる体があるのだから、天国という次元の違う、未知の世界においても、復活の命を生きる体があるはずだと想像したのです。理解はできなくとも、そのイメージを信じて受け入れたのです。
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 ところで、皆さんは“アバター”という言葉をご存じでしょうか?これは元々“化身”とか“具現化”といった意味を持つ英語です。例えば、インターネット上でスプラトゥーンというゲームをする場合、その仮想空間上に自分の“身代わりキャラクター”を作ります。それをアバターと呼びます。
 本来の言葉の意味はさて置き、先日、『アバター』という映画のシリーズ第1話がテレビで放映されました。地球のエネルギー不足を解決するために、人々は、地球から約6年の宇宙飛行を経て到達することができる惑星パンドラの鉱物資源を手に入れようとします。けれども、そこにはナヴィという先住民が住んでいました。地球人はナヴィと交渉して鉱物資源開発の許しを求めようとしました。その際、パンドラで活動するための“体”が必要でした。その体は地球人とナヴィのDNAをかけ合わせた人造生命体で、そこに人の意識だけを憑依させたものが“アバター”と呼ばれています。
 私は、パウロが語る「天上の体」「霊の体」について思い巡(めぐ)らしていた時、ふと“アバター”を連想しました。主イエスは十字架の上で息を引き取る直前に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)と叫ばれましたが、私たちも地上の命を終える時、霊がその体から離れて、天国で新たに与えられる天上の体、霊の体に憑依(ひょうい)するようなイメージを抱きました。もちろん、事実として理解できるようなことではありません。でも、そんな想像をしてみると、主イエスが生身の体とは違う「霊の体」で弟子たちの前に現われてくださったことも信じて受け入れられるように感じました。
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 そのように、本来は地上のものではない「霊の体」で現われてまで、主イエスが弟子たちに伝えたかったことがあります。十字架に釘(くぎ)付けられた手足を見せ、触らせ、魚までお食べになってまで伝えたかったこと。それは、ご自分が“生きている”ということ。言い換えれば、今も弟子たちを“愛している”ということ。この“命と愛”を信じてほしくて、主イエスは苦心し、心を砕(くだ)いておられるのです。
 ヨハネによる福音書20章にあるトマスの物語を思い起こします。弟子のトマスは、主イエスが復活して現われても、その手に釘跡を見、脇腹に槍(やり)で刺された跡を見、そこに自分の手指を入れてみなければ「わたしは決して信じない」(25節)と言い張りました。他の弟子たちが、主イエスは復活した!と喜び合っているのに、自分だけがお会いしておらず信じられない。その疎外感から意固地になり、啖呵(たんか)を切ってしまったのでしょう。言った後で“しまった!”とトマスは後悔したに違いありません。でも、今さら素直にはなれず、もう後には引けない気持になっていたでしょう。
 けれども、主イエスはトマスの“言葉”ではなく“気持”を汲み取ってくださいました。1週間後に弟子たちのもとに現れ、トマスに向かって語りかけます。あなたの手指を、私の釘跡に、槍の跡に入れて、よく見なさい。それでもいいから「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と、トマスの気持に寄り添ってくださったのです。その主イエスの計らいにグッと来た。自分のすべてが認められている、受け入れられていると感動したからこそ、トマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」(28節)と告白し、主イエスの復活を信じる者となったのです。“愛”がトマスを変えたのです。
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 弟子たちのもとに現れた主イエスは、「聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開い」(45節)たと書かれています。4月9日のイースター礼拝から3週に渡り、ルカによる福音書24章から主イエスの復活をお話してきました。24章を説き明かしながら思ったことは、私たちが主イエスの復活を信じられるようになるには、心の目が開かれて、聖書が悟れるようになることと深く関係しているということです。
 弟子たちは、主イエスの姿を見た時、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思い、「心に疑いを起こし」(38節)ました。それは、まだ大切なことに気づいていなかったからです。けれども、手足を見せ、触らせ、魚を食べて、“これでもか!”というほどの主イエスの計らいによって、自分は愛されているのだと気づいた時、心の目が開いたのです。
 人は、自分が愛されていることに気づいた時、心の目が開くのだと思います。“愛”によって変えられるのだと思います。本来なら主イエスの姿は見えません。でも、実在している。生きている。自分に寄り添ってくださる。自分を愛してくださる。それが見えるようになるのです。聖書の御言葉に、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」(46節)という御言葉の中に、“自分は神さまに愛されて、生きている”恵みが見えるようになるのです。
それが見えたら、主イエスの姿が見える必要はなくなります。自分の知識と経験で、理性的に主イエスの復活を理解する必要はなくなります。分からなくていい。でも、主イエスの命と愛が自分を生かしていることが信じられるのです。その時、私たちは「見ないのに信じる人」(ヨハネ20章29節)に変えられています。そこから、主イエスが生きていることを証しする「証人」(48節)としての歩みが、不器用でも、たどたどしくても始まるのです。

 

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