坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「嵐の海を航海する」 ~ わたしは神を信じています ~

2023年4月30日 主日礼拝説教         
聖 書 使徒言行録27章13~26節
説教者 山岡 創牧師

◆暴風雨に襲(おそ))われる 13ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨(いかり)を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。14しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。15船はそれに巻き込まれ、風に逆(さか)らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。16やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。17小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨(かいびょう)を降ろし、流されるにまかせた。18しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、19三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。20幾日(いくにち)もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。21人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。22しかし今、あなたがたに勧(すす)めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。23わたしが仕(つか)え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、24こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任(まか)せてくださったのだ。』25ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。26わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
「嵐の海を航海する」
~ わたしは神を信じています ~
 〈タイタニックは沈まない〉。牧師の家庭に生まれた私は、生まれた時から教会で育ちました。けれども、素直に育った“信仰の優等生”ではありませんでした。子どもの頃、教会学校(子どもチャペル)の礼拝で話された説教など、一つも覚えてはいません。そんな私でしたが、今でも印象に残っている紙芝居が二つありました。その一つが〈タイタニックは沈まない〉という紙芝居でした。聖書とは全く関係のない話ですが、タイタニック号が氷山にぶつかって沈没するという話がなぜか私の記憶に印象深く残りました。
タイタニックは映画化もされ有名になりましたが、今日の説教を準備しながら、私はふとこの紙芝居を思い起こしました。船が沈みゆく時の天候が嵐だったかどうかは記憶がありません。けれども、航海には何らかの困難がつきものです。その困難に翻弄(ほんろう)され、希望を失いそうになることもあるでしょう。まして2千年も昔、パウロの時代の船旅は尚更(なおさら)でした。けれども、嵐に翻弄(ほんろう)される船にあって、すべての人々が希望を失っているその中で、パウロの言葉が一筋の“光”のように私の心に届いて来て、力強く響きました。「わたしは神を信じています」(25節)
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 どうしてこのような事態になっているのか?少しだけおさらいをすると、パウロはエルサレムからローマに行って皇帝の裁判を受けることになった、というのがここまでの流れです。律法の“行い”ではなく、キリストの“恵み”によって人は救われる。パウロが語るこの福音に多くのユダヤ人が反発し、遂(つい)にはエルサレムでパウロは捕(とらえ)らえられました。宗教裁判が行われ、パウロは無罪放免(むざいほうめん)になりそうでしたが、ユダヤ人の執拗な妨害もあり、首都ローマに行って皇帝の裁判を受ける運びとなったのです。
 それで、27章のはじめにあるように、パウロはエルサレムから、「イタリアに向かって船出することに」(1節)なりました。船の海上ルートについては、聖書の巻末に〈パウロのローマへの旅〉という地図がありますので、関心のある方はご覧ください。
 そういうわけで、パウロは地中海をローマへと向かう船の上にいるのですが、風任(かぜまか)せの船旅ですから、人の「希(のぞ)みどおり」(13節)には進みません。クレタ島のフェニクス港まで行って待機していたところ、ようやく都合の良い南風が吹いてきたので、船は出港しました。しかし、間もなくエウラキロンと呼ばれる暴風に巻き込まれ、その後も暴風は吹きすさび、「幾日もの間、太陽も星も見えず」(20節)、ついに人々の心から「助かる望みは全く消え失せようとして」(20節)いました。けれども、そのような中で、パウロは確信的に語るのです。「わたしは神を信じています」と。
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 私たちの人生は“何”を信じるかによって大きく変わると思います。私たちはいったい“何”を信じて生きているのでしょうか?“神”を信じて生きているでしょうか?それとも“現実”を信じて生きているのでしょうか?つまり、自分の人生における“嵐”のような現実に心を奪(うば)われてしまってはいないでしょうか?私たちは、人生が“快晴”のような状況であれば喜び、感謝しますが、反対に嵐であれば、心を奪われ、支配され、翻弄されながら生活しているかも知れません。
 実際、それは無理もないことだとは思います。長い間、人生の“暗闇”が続けば、なかなか元気にはなれず、まるで嵐の海に飲み込まれ、沈んでしまうかのようになったとしても不思議ではありません。だれも、その人を責(せ)めることなどできません。
 主イエスの12弟子たちがそうでした。彼らは主イエスと一緒にガリラヤ湖を向こう岸に渡ろうとして舟を出したことがありました。その時、弟子たちは嵐に見舞われたのです。彼らは慌(あわ)てふためき、恐怖に陥(おちい)ります。しかし、見ると主イエスは嵐の舟の中で眠っておられました。そんな主イエスの様子に、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」と食ってかかる者がおり、「先生、おぼれそうです!」とすがりつく者もいました。嵐の中で人の反応は十人十色です。主が眠っているのだから大丈夫!と思う者はいませんでした。
 弟子たちの声に主イエスは起き上がり、風と荒波をお叱(しか)りになると、嵐は静まり、湖は凪(なぎ)になったといいます。そしてその時、主イエスは弟子たちに問われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカ8章25節)と。
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 私たちも主イエスから問われているように思います。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。その問いかけに、「わたしは神を信じています」‥‥とはなかなか言えないのではないでしょうか。人生が快晴で凪の時には調子の良いことも言えるけど、嵐の人生にあっては弟子たちと同じように、動揺し、絶望し、嘆(なげ)き、不平を言わずにはいられないのが“自分”ではなかろうかと思わずにはおられません。
 けれども、主イエスは弟子たちの不信仰、絶望、つまずきも織り込み済みで、見捨てることも、突き放すことも、否定することもなさらず、その言葉(御言葉)によって湖を凪にしてくださる。人生の嵐を静めてくださるのです。確かに、目の前の現実に心は揺れます。それが人情です。人間です。でも、目の前の現実ではなく、見えない“神”に心を留める。私たちを見捨てずに、嵐を静めてくださる主イエス・キリストを、神を見て、「わたしは神を信じています」、そう告白する者でありたいのです。現実に心は揺れても、“神”を信じる者となりたいのです。
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 神を信じるとは、具体的には何をどのように信じることでしょうか?今日の聖書個所に、「幾日もの間、太陽も星も見えず」とありました。私はその言葉から、『若草物語』の作者であるルイーザ・メイ・オルコットの言葉を思い起こしました。
 雲の向こうにはいつも青空が広がっています。止(や)まない雨はありません。
 神を信じるとは、人生の嵐、真っ暗闇(くらやみ)、曇り空の向こうには、いつも希望の光が輝き、青空のような神の平穏(へいおん)が広がっていることを信じる、ということでしょう。大切なことは、その希望と平穏をイメージする信仰の心です。それは必ずしも現実がこちらの期待通りにはるということではありません。つまり、嵐は止まない、雲は晴れないかも知れないのです。でも、その嵐の中で、雲の下で、「まだ暗いうちに」神さまが自分と共にいて救いの御業(みわざ)を始めてくださっていることを信じる。嵐や曇り空は、人の目から見れば不都合な、無意味なことかも知れませんが、その嵐の中で、曇り空の下で、神が与えてくださる意味があり、目的があり、恵みがあると信じる。そう信じることで、私たちは希望を捨てず、笑顔を失わず、忍耐し、見えない青空を信じて生きることができるのだと思います。小さな“元気”を出せるのだと思います。
「元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことはそのとおりになります」(25節)
揺らぐことがあっていい。御言葉を通して神のお告げ、語りかけに耳を傾け、揺らぎながらも信仰を失わず、信じて進みましょう。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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