坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「『この人は神さま』‥ではないけれど」

2023年5月14日 主日礼拝説教                    
聖 書  使徒言行録28章1~10節
説教者  山岡 創牧師

1わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。 2島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。 3パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮(まむし)が熱気のために出て来て、その手に絡(から)みついた。 4住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」 5ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。 6体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。 7さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚くもてなしてくれた。 8ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。 9このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。 10それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。


「『この人は神さま』‥ではないけれど」
 「この人は神様だ」(6節)。マルタの島民は、パウロを見て、そのように思いました。最初からそう思ったわけではありません。最初はむしろ、「人殺しにちがいない」(4節)と非難の目を向けました。「人殺し」から「神様」へ、驚くべき心情の変わりようです。いったいなぜ、そのように人々の見方が変化したのでしょうか。それは、パウロが蝮に咬(か)まれたのに死ななかったからです。
 ローマ皇帝の法廷で裁判を受けるべく、地中海をローマに向けてパウロを護送する船は、途中で嵐に遭(あ)いました。漂流すること14日が過ぎて、船はようやく一つの島に辿(たど)り着きます。その島はマルタ島と言って、島民は漂着した人々を、たき火を焚(た)いてもてなしてくれました。ところが、火にあたっているパウロのところに一匹の蝮が出て来て、その手に絡みつきました。はっきりと“咬んだ”とは書かれていませんが、人々はそれを見て、パウロが蝮に咬まれたと思ったでしょう。それで、この人は「きっと人殺しに違いない」、だから「正義の神」(4節)の“罰(ばつ)”が当たったのだ、と思ったのです。
 ところが、毒で死ぬはずなのに、パウロには何も起こりません。それで人々は、この人は人間ではない、神様だ、神様が人の姿でここに現れたのだ、と考えを変えたのです。
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 ところで、日本でも人を神として祭ることがありますが、ギリシア・ローマの世界にもそれがあ りました。天上に住む神々が、人の姿を取って地上に降りて来ると考えたのです。使徒言行録14章で、パウロとバルナバも、歩けなかった人を歩けるように癒(いや)したために、ギリシアの神々であるゼウスとヘルメスが地上に降りて来たと人々から思われて、危うく祭られそうになったことがありました。
 キリスト教信仰では、人を神として祭ることはありません。唯一の例外が、イエス・キリストです。キリスト教の母体であるユダヤ教では、神は人間からかけ離れた存在として、全く次元の違う場所におられると信じられていました。だから、ユダヤ教では、人を神と見なし、祭ることは決してありません。偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)で律法(りっぽう)違反になります。
 キリスト教もその信仰の伝統を受け継いでいました。けれども、キリスト教がユダヤ人から異邦人の世界へ、ローマ社会へと広がっていく中で、イエス・キリストは救世主メシアから神の子へ、更には“神”として信じられるようになりました。ヨハネによる福音書20章で、復活したイエス・キリストにまみえた弟子のトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」(20章28節)と告白していることが、イエスに対するそのような信仰のプロセス(経過)を表しています。イエスは人となった神です。キリスト教では最終的に、聖霊(せいれい)も“神”と見なし、神さまを父、子、聖霊なる三位一体(さんみいったい)の神として信じます。そこが、元々ユダヤ教の一宗派であった信仰が、ユダヤ教と袂(たもと)を分かち、“キリスト教”として成立することになった大きな要因かも知れません。
 宗教信仰の事柄ですから、良し悪しや、是非(ぜひ)の問題ではありません。ただ、キリスト教信仰の特徴であり、良さだと思うのは、主イエスという“人となった神”によって、神さまという存在がともて身近で、親しみやすいお方となった。抽象的な存在であった神が、具体的な、分かりやすいお方になられたということです。主イエスを見れば、神がどんなお方か分かる。私たち一人ひとりを愛するお方であることが分かるのです。
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 さて、話をパウロに戻しますが、もちろんパウロは「神様」ではありません。島民たちもパウロが死なないのを見て、一時はそう考えたようですが、特に“神”として祭ろうとはしていません。その後、島の長官ププリウスの父親の病をパウロが癒したことをきっかけに、島の病人たちもやって来て、癒してもらいました。それによって人々は、パウロに「深く敬意を表す」(10節)ようになりました。
 “神”として祭られるのではなく、“人”として敬意を表される。それは、その人が主イエス・キリストとその父なる神を信じるクリスチャンとして、人から好感を持たれているということでしょう。それはキリストを証しすることだと言えます。私たちクリスチャンは、自分の評価を求めるのではなく、それ以上に、私たちの背後におられ、支え、導き、励まし、慰めてくださる神を、それによって私たちを“生かしてくださる”神を、自分の生き方で指し示し、証しする。それが私たちに求められていることです。
 『こころの友』4月号に、一人のクリスチャンの生きる姿が掲載(けいさい)されていました。筋委縮性側索硬化症(ALS)という難病を抱えた畠中一郎さんという方です。2021年に、60代前半でこの病を発症された畠中さんは、病名と余命の宣告に驚きながらも、“ALS患者のためにできることがあるはず。これは自分に与えられた使命だ”と受け止めました。そして翌年、〈すこやかさ、ゆたかさの未来研究所〉という、ALS患者をサポートする財団を立ち上げました。今は、ALS患者にも使いやすい電動車椅子の普及に力を入れている、ということです。
 畠中さんは語ります。“「どうせ」ではなく、「どうせなら」と考えた方がいいですね。「どうせなら」の後に来るのは必ずポジティブな言葉です。ALSになった。「どうせなら」、私は同じALSの方の時間をきらきら輝かせるために生きていきたい”。
 パウロも病の人でした。病を抱えて苦労しながら、“神の恵みは自分に十分”と信じてキリストを伝え、人の病を癒した人でした。島民を癒すパウロの姿から、私は畠中一郎さんの記事を連想すると共に、その生き方に敬意を感じました。
 私たちの人生は、良いことも悪いことも、神さまが自分に与えられた出来事であり、賜物である。そこには必ず意味があり、目的があり、使命がある。そう信じて“どうせ”ではなく“どうせなら”とポジティブに受け止め、生きていく。それは、クリスチャンの信仰による主体性、積極性であると言うことができます。
 もちろん、私たち皆が、大きな事業を立ち上げられるわけではありません。立派な行いをし、聖人君子のように生きられるわけではありません。でも、私たちは決して“無名”のクリスチャンではありません。いや、同じ教会に属する人でなければ、だれも自分の名前を知らないかも知れない。でも、私たちは神さまに名前を呼ばれるクリスチャンです。“○○○○、あなたはここで生きなさい”と、神さまから置かれた場所があり、人間関係があり、そこで喜び、楽しみ、苦しみ、悲しみ、時には愚痴をこぼし、時には人を愛して、失敗しても悔い改め、赦(ゆる)されて、感謝して、祈りながら生きていく。“神さまに与えられた人生、どうせなら”とポジティブに受け止めながら生きていく。その信仰の道を、自分なりに、真剣に、誠実に生きようとするならば、そこにきっと信仰の花が咲き、キリストの香りが証しとなって広がります。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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