坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「新しい希望」

2023年5月21日 主日礼拝説教                   
聖 書  使徒言行録28章17~22節
説教者 山岡 創牧師
17三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。 18ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。 19しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴(じょうそ)せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。 20だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」 21すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。 22あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
「新しい希望」
ローマ皇帝に上訴し、その裁判を受けるためにパウロはローマに護送されました。そして、ローマに到着して3日目、パウロは「おもだったユダヤ人たちを招き」(17節)ます。そして彼らにこう語りました。「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです」(20節)と。
 パウロは同朋(どうほう)であるユダヤ人たちから迫害され、訴えられました。だから、パウロは今、被告であり囚人の身です。また、パウロが宣(の)べ伝えている「希望」は、ユダヤ教の「分派」と見なされ、ユダヤ人たちから「至るところで反対」(22節)を受けていたのです。イスラエルの希望を宣べ伝えているはずなのに、いったいどうしてでしょうか?何がユダヤ人の気に入らないのでしょうか?それは、この希望が主イエス・キリストによって実現した、という説教の内容に原因があります。
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 イスラエルの希望、神の約束の希望、それは、イスラエルのルーツ、ユダヤ人の先祖であるアブラハムに与えられた祝福の約束でした。神の楽園から追放され、この世をさまよい、罪を重ねる人類の中にあって、アブラハムは祝福の源、祝福のモデルとして選ばれます。神の言葉に聞き従って生きなさい。そうすれば、あなたと子孫を祝福する、と神さまは約束されたのです。当初は、定住する土地の獲得、子孫の繁栄が、神の祝福の内容でした。やがてカナンの地に王国が建国され、アブラハムの子孫は繁栄します。
 時を経て主イエスの時代、神の祝福の約束は、イスラエル王国の復興として待望(たいぼう)されていました。と言うのは、その後の歴史において、イスラエルは大国に代わる代わる滅ぼされ、支配されたからです。しかし、そのような希望と同時に、神の祝福は、移ろいゆくこの世の国ではなく、永遠に変わることのない“神の国”と呼ばれる別次元の王国であり、これを待望する信仰が生まれました。神の国を希望とする信仰は“永遠の命”というキーワードで表現されます。
 主イエスは“神の国”を、“永遠の命”を宣べ伝えました。パウロもその伝道内容を受け継いでいます。では、同じくこれを待望するユダヤ人の信仰、希望と何が食い違ったのでしょうか?それは、この希望が主イエスによって実現するという一点でした。ユダヤ人の多くは、祝福の約束を実現する救い主として主イエスを認めなかったのです。それどころか、主イエスのことを律法(りっぽう)に違反する者として十字架に架(か)けて処刑しました。
 もっとも、主イエスは必ずしも律法に違反していたわけではありません。律法の中で、神の愛を、隣人愛を、互いに愛し合うことを“律法の真髄”だと受け止め、“愛”に基づいて行動しただけです。“愛”が祝福を実現する鍵だと信じたのです。しかし、その行動が主流派からは煙たがられ、律法違反だと裁かれて、処刑されることになりました。
 けれども、弟子たちは主イエスの愛を受け継ぎました。そして十字架刑は“愛の業(わざ)”だと。主イエスがご自分を犠牲とし、人間の罪をあがない、祝福を実現するための“救いの業”だと宣べ伝えました。神の国と永遠の命という祝福の約束は、律法の行いによってではなく、神の愛により、主イエスの恵みによって実現するという信仰です。“行い”か、“恵み”か、私たちの信仰にとって、最も大切な核心であり、生き方の分かれ目です。
 結局、ユダヤ人のほとんどは、旧約聖書以来の、律法とその行いによる祝福の実現という信仰に留(とど)まりました。そのために、主イエスの恵みによって祝福は実現されるという信仰は、ユダヤ教の「分派」から、やがてはユダヤ教と袂(たもと)を分かち、キリスト教という宗教へと独立していくことになったのです。
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 信仰とは希望です。私たちの人生の支えです。大切なことは、キリスト教を信じて生きている私たちが、果たして今、“何を”希望として信じ、生きているかということです。
 先日、5月の御(み)言葉を分かち合う会で、ヘブライ人への手紙11章を読みました。その冒頭、1節にはよく知られている御言葉が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」「望んでいる事柄」「見えない事実」とは何だろうか?よく分からない、という感想が出され、その際にも一緒に考えました。
それは、今日の聖書箇所にある「希望」と同一です。神の祝福の約束のことです。“神の国”を受け継ぎ、“永遠の命”をいただいて、愛と平和に生きることです。そして神の国は今、信じる私たちの心に、私たちの関係の中に、「見えない事実」として、見えない“愛の国”として始まっています。そして、やがては完全なる神の国に迎えられ、永遠の命をいただき、もはや死も悲しみも、痛みも困難もない、愛と平安の世界に生きるのです。主イエス・キリストによって、この救いの約束は実現した、実現すると、クリスチャンは信じます。
とは言え、そんな“絵空事”のような約束が、私たちの今の生活に何の役に立つのか、と思われるかも知れません。だから私たちは、救いが分からず、この世の生活における平安を、成功を望んで生きてはいないでしょうか?いわゆる家内安全、無病息災、商売繁盛(はんじょう)を望みながら生きているのではないでしょうか?それを望み、祈り願うことがよくないことだとは思いません。私たちの素直な望みでしょう。そして、生活に平安があり成功があれば、私たちは神さまに感謝します。
けれども、それがこの世の生活に実現することが神の祝福であり、救いであると考えるとしたら、それは信仰を誤解しています。そう思っていたら、この世の成功と平安にしがみつきたくなります。福音書(ふくいんしょ)に記(しる)されている金持ちの議員と同じになります。
一人の議員が主イエスのもとに来ました。彼は青年だったとも言われています。永遠の命を得るにはどうしたらよいでしょうか?彼は主イエスに尋ねました。主は、律法、特に十戒を守るように勧(すす)めました。ところが、彼は、律法と十戒は小さい頃から守り続けて来た、他に何が必要でしょうか?と言うのです。そこで主イエスは、持ち物をすべて施(ほどこ)して、わたしに従いなさいと彼に言いました。すると、彼はたくさんの財産を持っていたので、悲しみながら立ち去ったと書かれています。
永遠の命を望んでいるはずなのに、財産から、この世の成功と平安から離れられない。私たちの信仰生活にも同じようなところがあるのではないでしょうか。実際に、そういったものを持ってはいけないと、すべて捨てることが求められているのではありません。財産等に代表されるこの世の成功と平安には、神の祝福、神の救いはないということを知りなさい、ということです。平安とは、願い通りになり、思うままに人生が運んでいるがゆえのものではなく、ままならない人生に神の愛が注(そそ)がれ、希望を備えられているがゆえの平安です。その深さは、自分の人生において苦しみや悲しみに見舞われ、財産や健康、家族といった大切なものを失うにつれて、あぁ、そうだなとよく分かり、自分の心にストンッと落ちるようになっていくでしょう。
主イエスの恵みによって実現する神の国と永遠の命は、信仰による究極の希望です。ままならない人生において、神の愛を信じ、苦しみ悲しみの意味と目的を信じて生きていくための希望です。私たちは現実的にも、旅行とかイベントとか、ちょっと先に何か楽しみがあれば、“今”をがんばろうと思えるものです。神の国は聖書において、最高のパーティー会場として描かれています。信仰による希望を楽しみに待ち望んで、今を、置かれた場所で平安に生きることができたらどんなに幸いでしょうか。

 

  

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