坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「伝道は続くよ、どこまでも」

2023年5月28日 聖霊降臨祭・ペンテコステ礼拝説教             
聖 書 使徒言行録28章23~31節
説教者 山岡 創牧師

23そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法(りっぽう)や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。 24ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。 25彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。「聖霊(せいれい)は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、 26語られました。
『この民のところへ行って言え。
あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
27この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
28だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」 29†
30パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、 31全く自由に何の妨(さまた)げもなく、神の国を宣(の)べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

「伝道は続くよ、どこまでも」
 本日は〈聖霊降臨祭ペンテコステ〉の記念日を迎えました。イースター、クリスマスと並び、キリスト教の三大祝祭日の一つです。ペンテコステという言葉は、使徒言行録2章1節にある「五旬祭(ごじゅんさい)」と訳された言葉から来ています。ユダヤ教では「五旬祭」と言いますが、キリスト教では〈聖霊降臨祭(せいれいこうりんさい)〉と呼ばれます。文字通り、聖霊が天から降(くだ)り、祈り求める弟子たちに臨(のぞ)んだ日だからです。
 使徒言行録2章に、その時の様子が記(しる)されています。集まって祈っていた弟子たちのもとに、風と炎のような聖霊が降り、力を受けた弟子たちは、主イエス・キリストの復活と恵みによる救いを証しし、宣べ伝えました。その言葉を信じた人々によって、エルサレムに最初の教会が生まれたのです。
 この日から弟子たち、特に12弟子は、キリストの救いを宣べ伝えるために“召された者”として“使徒(しと)”と呼ばれるようになりました。使徒言行録とはまさに、使徒たちがキリストの救いを宣べ伝えた言葉と行動の記録です。その伝道の主役は使徒たち‥‥のように見えます。もちろん、その見方は決して間違ってはいません。
 けれども、使徒たちを内側から突き動かし、語らせ、行動させたものは“聖霊”です。“聖霊なる神”の働きです。私たちはそのように信じます。だから、使徒言行録とはコインの表を裏返せば、“聖霊言行録”だと言うことができます。聖霊なる神こそが伝道の“キーマン”であり、キリストを信じるための信仰の“キーマン”なのです。
       *
 今日、ペンテコステの日に奇(き)しくも、礼拝で説教を語り続けて来た使徒言行録の最終章、最後の箇所を迎えました。ユダヤ人たちから訴えられ、ローマ皇帝に上訴(じょうそ)し、その裁判を受けるべくローマにたどり着いたパウロが、その地で、自分のもとに集まって来るユダヤ人たちに、イエス・キリストによる救いを宣べ伝えた。神の祝福の約束である「神の国について力強く証しし」(23節)、この約束を実現する救い主こそイエス・キリストであると「イエスについて説得しようとした」(23節)というのが、使徒言行録の最後の内容です。そして、「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった」(24節)といいます。それはもっともなことです。宗教信仰の教えなのですから、フェアに考えれば、その応答は一つではありません。100人いたら100人の人が皆、“信じます”とならないのは当然のことです。逆に100人全員が信じたら、ある意味で異常です。
 けれども、この現実に対してパウロは、旧約聖書・イザヤ書6章にある預言の言葉を引用して言います。選ばれた民であるユダヤ人は、救いの言葉を聞いても理解せず、立ち帰らない、と。信じないあなたがたは、預言者イザヤを通して聖霊が語られたとおりになった、と。何だか信じないという選択が非難されているように聞こえて、ちょっと言い過ぎじゃないの?自分本位なんじゃないの?そこまで言わなくてもいいじゃない、と言いたくなります。
 けれども、見方を変えれば、それはパウロの、いや聖霊なる神の切実な“願い”の表れです。ここに救いがある。恵みがある。信じてほしい。信じて救われてほしいという願いの表れであり、どうして信じてくれないのだ?!という歯がゆさがにじみ出ている言葉です。それだけ本気だということです。愛しているということです。いささか自分本位な愛かも知れませんが、どうでもいい人に対してなら、ここまでにはならない。本気で愛しているのです。もし私たちにも、本気で“この人、救われてほしい”と願っている人がいるならば、この神さまの気持、分かるのではないでしょうか。
 そして、この本気の愛は決して“押し付け”“強制”にはなりません。相手を“待つ”姿勢になります。忍耐となり、祈りとなります。
 イザヤの預言を引用したパウロの言葉は、信じないユダヤ人に対するあきらめの“捨てゼリフ”のように聞こえます。けれども、決してそうではありません。パウロは、ローマの信徒への手紙の9~11章で、神さまの救いの約束は決して反故(ほご)にはならないと語っています。ユダヤ人が信じなかったことによってキリストの救いは異邦人に宣べ伝えられ、異邦人が救われた後に、今度はユダヤ人が救われると語っています。ユダヤ人が救われるためならば、自分はどうなっても良いと言うほどに、パウロは本気なのです。
パウロは決してあきらめない。聖霊なる神さまの無限の可能性を信じているからです。いや、神さまは決してあきらめない。私たち一人ひとりをお造りになった神として、本気で愛しておられるからです。
考えてみれば皆さん、ここにいる私たちが神さまを信じている、キリストの救いを信じているというのは、まさに聖霊なる神のお陰ではないでしょうか。信仰に至るまで紆余曲折(うよきょくせつ)があったと思います。きっかけがあり、でも信じられない気持があり、疑いがあり、迷いがあったでしょう。それでも今、信仰に至っている。不完全ですが、信じている。信じる道を歩いている。これは私たち自身の力ではない。“聖霊による奇跡”ではないでしょうか。神さまのあきらめの悪さの賜物(たまもの)、いや“愛”の結晶が私たちです。
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 そして、神さまがあきらめない限り、救いの伝道は続きます。使徒言行録の結末、特にパウロの結末は分かりません。「パウロは‥‥神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(31節)と、尻切れトンボのように終わります。でも、それは救いの伝道がここで終わるのではなく、続いているからです。使徒言行録はこれでエンドではない。“完”ではない。“続く”のです。私たちが続けるのです。私たちが受け継ぐのです。使徒言行録は常に“未完”です。神の国が完成するまで、夢のような話ですが、すべての人が救われるまで、それを書き続けるのは、私たちです。
 今日の聖書箇所を黙想しながら、〈線路は続くよ〉という唱歌を連想しました。
  伝道は続くよ、どこまでも  野を越え、山越え、谷越えて
  はるかな町までキリストの  楽しい救いの夢、つないでる
 聖霊なる神さまがつないでいる夢を、救いのご計画を、私たちも信じて、信仰の道を歩き、そして救いの恵みを伝え続けていきましょう。伝道は続くよ、どこまでも。

 

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