坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「道を整える」

2023年6月4日 主日礼拝説教                    
聖 書  マタイによる福音書3章1~12節
説教者  山岡 創牧師

1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣(の)べ伝え、2「悔(く)い改(あらた)めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

「荒れ野で叫(さけ)ぶ者の声がする。

『主の道を整(ととの)え、

その道筋(みちすじ)をまっすぐにせよ。』」

4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒(いか)りを免れると、だれが教えたのか。8悔(く)い改(あらた)めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧(おの)は既(すで)に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導(みちび)くために、あなたたちに水で洗礼を授(さず)けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優(すぐ)れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊(せいれい)と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々(すみずみ)まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる。」
「道を整える」
 今日からマタイによる福音書を通して、神の言葉に耳を傾(かたむ)けたいと思います。1~2章は主イエス・キリストの誕生にまつわる物語ですので、そこは12月のクリスマスの時期に改めてお話させていただきます。そういうわけで3章から説教を始めます。
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 3章にはまず、洗礼者ヨハネという人物が登場します。荒れ野で、ユダヤの人々に「悔い改めよ、天の国は近づいた」(2節)と宣べ伝え、洗礼を授けた人です。荒れ野を拠点に活動していたようですが、ユダヤ教の中でエッセネ派と呼ばれる、荒れ野にある修道院のような、共同生活をする宗派に属していたとも言われます。そして、この後で、主イエスがヨハネのもとにやって来て洗礼を受けていますから、主イエスを教え導き、影響を与えた“師匠(ししょう)”のような存在であったことは間違いありません。
 ヨハネは「天の国」が近づいていることを感じていました。「天の国」は、マタイによる福音書以外では「神の国」と言われます。この世の王国と考える宗派もあれば、全く別次元の、来世の国だと信じる人々もいました。ヨハネはどちらであったのか定かには分かりませんが、いずれにせよ彼は「天の国」が差し迫っていることを感じ、その国に入るためには悔い改めが必要だと信じて、人々に悔い改めを求めたのです。
 このような洗礼者ヨハネの活動を、マタイは、旧約聖書にある預言者イザヤの言葉によって捉(とら)えています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(3節)。これはイザヤ書40章3節からの引用です。イザヤの預言において、つまり神さまの救(すく)いのご計画において、天の国へと至(いた)る道を整えよ、まっすぐにせよ、と人々に呼びかけたのがヨハネです。そのために「悔い改め」を求めたのがヨハネです。
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 ところで、整えられた、まっすぐな道って、どんな道でしょうか?まっすぐなのですから、進みやすく、迷ったりはしないのでしょう。つまずいて転んでしまうようなデコボコもないのでしょう。そして、まっすぐなのですから道の先には天の国が、救いがはっきりと見えているような、そんな見通しの良い道を私たちは考えるかも知れません。
 けれども、信仰の道を整えて、まっすぐにするということが、そういうことであるならば、私たちには無理!そんなこと、とてもじゃないができないと途方に暮れてしまうのではないでしょうか。自分は救いにたどり着くことなんてできないとあきらめてしまいそうになるかも知れません。ここに集まっている多くの方が信じて洗礼を受け、信仰の道を歩き始めています。でも、その道はまっすぐではないでしょう。曲がりくねり、テコボコや石がある。高い山があり、深い谷があり、また真っ暗なトンネルもある。その上、一本道ではなく、分かれ道に何度となく出くわす。迷いそうになる。つまずきそうになる。うずくまりたくなる。信じて歩く私たちの人生は、そんな道なのではなでしょうか。いったいどうやってまっすぐに整えよ、と言うのでしょうか?
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 そのことを考えるために、整えるという発想、まっすぐという意味を考える視点を変える必要があると思います。ある意味で「悔い改め」です。悔い改めとは“心の方向転換”というのが元々の意味です。発想を転換する。視点を転換するのです。
 そのためのヒントになる話が、7節以下にあります。そこには「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」(7節)と書かれています。けれども、悔い改めて洗礼を受けることは、天の国に至る道を整えることになるはずなのに、そのためにやって来た人々をヨハネは非難しています。いったいどうしてでしょうか?
 それは、彼らが、自分たちは「アブラハムの子〈子孫〉」(9節)として、天の国に入ることが既に約束されていると自惚(うぬぼ)れていたからです。だから、洗礼を受けることが心からの悔い改めではなく、自分たちの信仰の敬虔(けいけん)さ、立派さをアピールしようとするポーズになっていたからです。自分たちは神さまから祝福を約束された民族だ。しかも、天の国に入るために、既に多くの功績を積んで来た。神の掟(おきて)である律法を守り、行い、礼拝で何度も献げ物をささげ、天の国に入る資格は十分だ、と考えているのです。つまり彼らは“自分の力”で天の国に入れる、救いを手に入れることができると考えているのです。ヨハネが悔い改めを、方向転換を迫ったのは、まさにその点です。
 そしてヨハネは、自分の後から来る方、すなわち主イエスを「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(11節)方として証言しています。聖霊によって洗礼を授ける。つまり、“神の力”によって人を悔い改めに導く、ということです。言い換えれば、“神の恵(めぐ)み”にゆだね、お任(まか)せすることで平安をいただく。そのような信仰の道に人を歩ませる方が主イエスだということです。
 主イエスの教えの一つに〈ファリサイ派と徴税人のたとえ〉があります。二人は神殿に上り、祈りました。ファリサイ派は、自分の行いを誇り、また徴税人を見下して祈りました。他方、徴税人は、自分には誇れるものなどなく、むしろ罪にまみれた自分であることを知っていました。だから彼は遠くに立って、胸を打ちながら、「神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈りました。主イエスは最後に語ります。神さまに受け入れられて帰ったのは、ファリサイ派ではなく徴税人だと。ファリサイ派の行いは立派であるかも知れない。けれども、どんな人として優れていても、自分の力で神さまに認められ、救いが得られる、天の国に入れると考えるのは思い上がりです。“神さま、こんな私ですが、よろしくお願いします”と聖霊なる神の力、神の恵みを信頼しておゆだねする。おゆだねして、安心して歩む。それによって天の国に至る道は拓かれ、整えられていくのです。
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 かつて教会員であり、既に天に召されたIさんが、“自分はデモクリだ”とよく証しされました。“お前はそれでもクリスチャンか?!”と周(まわ)りの人から非難され、責められることがあった。言い訳などできず、恥(は)じ入るほかない。自分でもその自分の不甲斐無(ふがいな)さに悪夢さえ見ることがしばしばあった。けれども、ある時から“自分はこれでもクリスチャンです”と思えるようになった。自分の不信仰も、欠点も、不甲斐無さも、すべて神さまの憐(あわ)れみに“こんな私ですが、よろしくお願いします”とおゆだねする。そうしたら、悪夢を見なくなった。自分は赦(ゆる)されている。愛されている。そう思い、安心して信仰生活ができるようになった。しばしばそのように語られました。
 そのように生きることが、道を整えるということではないでしょうか。そして、それを見て、その道に続く人がきっと起こされます。立派な信仰でなくていい。立派過ぎたら、だれも後に続いて歩けなくなります。神さまの憐れみによって、私はこれでも、愛されて生きるクリスチャンです、と喜び感謝する信仰の道を歩む。落ち込むことがあっても、自分を責(せ)めることがあっても、あきらめそうになっても、そういう自分を神さまに打ち明け、ゆだね、絶えずこの道に立ち帰りながら歩みましょう。それによって「道」は整えられます。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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