坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「あなたはわたしの愛する子」

2023年6月11日 主日礼拝説教                    
聖 書  マタイによる福音書3章13~17節
説教者  山岡 創牧師

◆イエス、洗礼を受ける 13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧(ごらん)になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」と言う声が、天から聞こえた。
「あなたはわたしの愛する子」
 「悔(く)い改(あらた)めよ」(3章1節)と宣(の)べ伝え、ヨルダン川でユダヤの人々に洗礼を授けていたヨハネのもとに、主イエスがやって来ました。ヨハネから洗礼を受けるためです。
 現代の教会にも洗礼の儀式は受け継(つ)がれています。坂戸いずみ教会でも、コロナ禍(か)の間に何人もの方が洗礼を受け、私たちは喜びと感動を共にしました。一人ひとりの洗礼式には、そこに至(いた)る歩みときっかけがあり、思いがあり、感動と感謝があったに違いありません。その時の心の思い、感動、感謝こそ、信仰のスタートです。そして信仰生活において迷いや疑いが生じた時、立ち帰るべき原点が洗礼であり、その時に与えられた恵みです。この原点となる恵みとは何か?それは、自分は神さまの「愛する子」なのだ、という喜びです。あなたは「わたしの愛する子」(17節)と神さまから呼びかけられている存在、認められ愛されている存在なのだとう安心感です。信仰生活とは、この恵み立って歩(あゆ)む道です。この恵みに絶えず立ち帰りながら歩む道です。
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 ところで、ヨハネのもとに洗礼を受けるためにやって来た主イエスには、何だか個人的な感動がないように思われます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)。洗礼を思い止まらせようとするヨハネに、主イエスはこうお答えになりました。冷静で、どこか他人事のような感じさえします。
 けれども、主イエスにもきっと人として生きて来た人生の苦しみ悩(なや)みと、それにまつわる救いへの思いがあったに違いありません。アブラハムの子孫(9節)として神の祝福と救いを約束されているユダヤ人には本来、洗礼を受ける必要はないのです。その常識を破って、ヨハネは「悔い改め」を呼びかけ、ユダヤ人に洗礼を授けました。そのヨハネのもとにおいでになったのですから、主イエスの洗礼は、ファリサイ派やサドカイ派の人々のような見せかけのポーズではなかったはずです。主イエスは「天の国」を望んでいた。救いを求めていた。そのために悔い改めが必要だと感じていたはずです。
 悔い改めとは、単に悪い思いを反省するとか、悪い行いを改(あらた)めるといったことではありません。悔い改めとは、新約聖書の原典が書かれたギリシア語ではメタノイアという言葉であり、その意味は“心の転換”ということです。それは“反省”とは異なり、むしろ“気づき”というべきものです。神さまに心を向けることによって、神の言葉に耳を傾けることによって、今まで見えていなかったものに気づくということです。自分という存在に、自分の人生に、新しい意味を、使命を、目的を発見するということです。
 主イエスは「天の国」を求めて洗礼を受け、洗礼を通して新しい意味に気づかれたのだと思います。「神の霊が御自分の上に鳩のように降って来るのを御覧になった」(16節)とありますが、神の霊の働きかけによって、言い換えれば直感的に、存在の恵み、人生の恵みに目が開かれたのです。それが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という天からの声に表されています。自分は父なる神さまに愛されている存在、自分の人生には神の愛が注がれているという恵みです。
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 『たいせつなきみ』という絵本があります。ウイミックスという木でできた小人たちの話です。彼らは毎日、お互いにシールの貼り付けっこをしていました。見た目が良かったり、何かができる小人には金ピカのお星さまシールが貼り付けられました。反対に、見た目が悪かったり、失敗したり、何も優(すぐ)れたところのない小人には灰色のだめじるしシールが貼り付けられました。
 パンチネロという小人がいました。彼は、だめじるしシールばかりをみんなから貼り付けられました。それが嫌(いや)で、家から出たくなくなりました。自分はだめ人形だと思うようになっていました。灰色シールばかりの仲間とつるむようになっていきました。
 ある日、パンチネロは、体にシールが1枚も貼り付いていないルシアという小人と出会います。だれが貼ろうとしても彼女の体からはシールがはがれ落ちます。不思議に思ったパンチネロは、彼女にその理由を尋(たず)ねました。するとルシアは、丘の上に住む、自分たちウイミックスを造った彫刻家のエリに、毎日会っているからだと答えました。“自分で確かめてくれば?”と促(うなが)され、パンチネロは意を決して、エリに会いに行きます。
 エリは会いに来た彼を見つけ、“パンチネロ”とその名を呼びます。よく来たね、待っていたよ、と喜び、わたしはおまえのことをとてもたいせつに思っていると語りかけます。ぼくは何もできないし、だめじるしシールばかりなのに、どうしてたいせつなの?と問い返すパンチネロに、エリは、それは私がおまえを造(つく)ったからだよ、と答えます。そして、みんながどう思うかではなく、私がおまえをたいせつに思っていることを信じれば、シールは貼りつかなくなるよ、と教えます。
パンチネロの帰り際に、エリは言います。
 忘れちゃいけないよ。‥‥この手でつくったから、おまえはたいせつなんだってことを。それから、わたしはしっぱいしないってこともね。(上掲書31頁、Foresut Books)
それを聞いたパンチネロの体から、灰色シールが1枚、はがれて地面に落ちます。
 自分は、造り主である神さまに造られ、愛され、大切にされている存在なのだ。この恵みに心の目が開かれたら、私たちの人生は変わります。人生の“色”が変わります。現実は変わらないかも知れないし、何かができるようになるわけでもない。でも、人生は灰色からバラ色‥‥かどうかは分かりませんが、間違いなく喜びの色になる。感謝の色になる。希望の色になる。愛の色に変わります。そして、心が変われば自ずと生き方が変わっていきます。
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 主イエスは、“神さまに愛されている人間”として生きる道を、洗礼によって切り拓(ひら)いてくださいました。その意味では確かに、神さまの救いのご計画に適(かな)う「正しいこと」がすべて行われたということができるでしょう。
 勘違いをしないでほしいのは、洗礼を受けたから神さまに愛される、のではないということです。洗礼という“行い”によって、つまり私たちの行いや功績を評価して、神さまは私たちを愛するのではありません。洗礼を受けようと受けまいと、行いがあろうとなかろうと、私たちは“造られた者”として神さまに愛され、大切にされているのです。その無償の愛、無条件の恵みに気づいた者が、その気づきのしるしとして受けるのが洗礼です。“私は神さまに愛されています”と喜びと安心を証(あか)しするしるしが洗礼です。
神の愛と恵みは永遠に変わることがありません。もしも私たちが信仰に迷い、揺らぎ、変わることがあったとしても、神さまの側では変わることのない“永遠の恵み”です。神さまは〈放蕩(ほうとう)息子の父親〉のように、常に私たちを見守り、待ち続けておられます。この道を歩みましょう。また逸(そ)れることがあっても立ち帰って歩み続けましょう。

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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