坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「悪魔のキャッチ・セールス」

2023年6月18日 主日礼拝説教                    
聖 書  マタイによる福音書4章1~11節
説教者  山岡 創牧師

◆誘惑(ゆうわく)を受ける 1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導(みちび)かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食(だんじき)した後、空腹を覚(おぼ)えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」
7イエスは、「『あなたの神である主(しゅ)を試(ため)してはならない』とも書いてある」と言われた。8更(さら)に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝(おが)むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退(しりぞ)け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
「悪魔のキャッチ・セールス」
 そこのあなた!とても顔色が悪いようですね。どうかされたのですか?‥‥ハハァ、おなかが空(す)いているのですね。それなら良い方法がありますよ。“信仰”です。神さまを信じて洗礼を受け、神さまの「愛する子」(3章17節)にさえなれば問題解決、間違いありません。信じて祈れば、あら不思議!こんな石ころがパンに変わるんですよ。あなたは、ヨハネさんのところで洗礼を受けて来たんですよね?何でもその時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」(17節)と、天からの声がハッキリ聞こえたとか。どうです?やってみませんか?一つ、“そこの石よ、パンになれ!”と命じてみませんか?まるで泉が湧(わ)くようにパンがどっさり出て来て、満腹になること間違いなしです!‥‥
 もしも悪魔がキャッチ・セールス風に人を誘惑するとしたら、こんな感じで誘導(ゆうどう)するのでしょうか?実際、私たちの信仰生活において、“悪魔の誘惑”と表現されるものは、非常に巧みなキャッチ・セールスにたとえることができると思います。
 キャッチ・セールスとは、金儲(かねもう)けという本来の目的を隠(かく)して、アンケートや無料体験等の名目で相手を釣り、高額な商品やサービスを契約させる販売方法です。
 悪魔の目的は、神さまを信じている人を、不信仰へと陥(おとしい)れ、神さまから引き離すことです。もちろん、そのような目的は隠して、おくびにも出さず、お得で、おいしい話で釣ったり、反対に苦しみや悲しみで私たちの心をつかもうとします。そして、“神さまを信じるよりも、こっちの方がお得で、楽しいや”と迷わせたり、反対に“こんな目に遭(あ)うなら、もう神さまなんて信じられない!”と疑わせたりして、私たち信仰者を神さまから引き離す目的を達成しようとします。何なら聖書の言葉さえ持ち出して(6節)、誘惑しようとする相手に、“自分は御言葉に耳を傾けている。神の御心に従っている”と思わせて自己正当化、絶対化させ、神さまから引き離すという自分の目的を達しようとしますから非常に質(たち)が悪い。
 そのような悪魔の巧みなキャッチ・セールスに、どのように対処すれば良いのでしょうか?その対処法を主イエスが示してくださいます。
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 ヨルダン川のヨハネのもとで洗礼をお受けになった主イエスは、その後、「“霊”に導かれて荒れ野に行かれ」(1節)ました。洗礼をお受けになった時、「神の霊が鳩のように」(3章16節)に主イエスの上に降った霊が、主イエスを荒れ野へと導いたということでしょう。
 それにしても故郷のナザレに戻るわけでもなく、主イエスが荒れ野に赴(おもむ)いた目的は何だったのでしょうか?荒れ野には、ユダヤ教のエッセネ派と呼ばれる宗派の共同体があったようです。そして、洗礼者ヨハネはその共同体に属していたのではないかと推測されています。だとすれば、ヨハネから洗礼を受けた主イエスが荒れ野の共同体に向かったというのはあり得る話です。荒れ野での共同生活において、ヨハネの教える「天の国」「悔(く)い改(あらた)め」(3章2節)の信仰を深めるためです。あくまで想像ですが、要は洗礼を受けた主イエスにも、信仰を生きる現場、生活の場があったということです。
 そして、どんな生活の場であろうと、神さまを信じて生きようとする限り、そこでの出来事や人間関係によって必ず“悪魔の誘惑”と言われる心の動きが起こります。動揺(どうよう)が、迷いが、疑いが起こります。私たちの心の中で、悪魔と主イエスが対決します。
 不思議なのは、悪魔の誘惑が神の霊の導きだと書かれていることです。もしそうだとすれば、それはヘブライ人への手紙12章11節にも書かれているように、誘惑(試練)によって信仰が鍛(きた)えられる機会を、神さまが敢(あ)えて私たちにお与えになるということでしょう。当座は「喜ばしいものではなく」とも、それによって信仰は成長し、実を結びます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達(れんたつ)を、練達は希望を生む」(ローマ5章3~4節)のです。
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 ところで、最初と2番目の誘惑で、悪魔は主イエスに、「神の子なら」(3、6節)と言って誘(さそ)おうとしました。あなたは愛されている神の子でしょう?神の心に適う者なのでしょう?だったら、あなたが望めば、あなたが祈れば、神さまは喜んでその願いを叶(かな)えてくださるはずだ。そう誘っておいて、もし祈り求めたようにならなかったら、あれっ?おかしいですね。あなた、実は神さまから愛されていないんじゃないですか?‥‥そう言って信仰を揺さぶるつもりなのです。
 私たちもこの誘惑に弱いところがあるのではないでしょうか?神の子なら、神さまならこの世界を平和にできるはずだ。それなのに、どうして戦争や災害が頻繁(ひんぱん)に起こるのだろう?神の子なら、神さまなら、人の苦しみ悲しみを取り除き、私の困難を解決できるはずだ。それなのに、どうして苦しみ悲しみは無くならず、問題は解決しないのか?神さまを信じたって幸せになれない。無意味、無駄(むだ)ではないか?神さまは本当にいるのだろうか?多かれ少なかれ、このような思いを持ったことがあるかも知れません。
 それは言い換えれば、自分が神さまの「愛する子」である確証がほしい、という気持の裏返しです。愛されている証拠があれば信じられる。そうでないと信仰が揺らぐ。
 でも、証拠があったら、それはもはや“信仰”とは言いません。事実を認知し、確認するというだけのことです。自分にとって幸せと思える、都合の良い事実があるから信じるのではありません。それがあっても無くても、私たちを造(つく)られた神さまが、この“私”という存在を無償で愛していることを信じるのです。愛を信じることで、あきらめず、希望をもって、感謝を忘れずに生きる生き方が生まれるのです。それが信仰です。
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 その信仰の生き方を、主イエスが教えてくださいます。主イエスは3つの誘惑に対して、3回とも御言葉を持ち出しています。最初は、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)と言われました。これは、たとえ「パン」(4節)に象徴される都合の良い事実がなくても、その事実ではなく、御言葉を信頼して生きるということです。
 だから、都合の良い事実を求めて、「あなたの神である主を試してはならない」(7節)と言われるのです。パンを求めることから、更にはこの世の「国々と繁栄」(8節)を望み、その権力と富に幸せを求めるのではなく、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕え」(10節)ることで、どんな時にも幸せを、喜びと感謝を見失わない心を養(やしな)うのです。
 悪魔が実在するとは思いません。でも、確かに私たちの心の中に住んでいます。隙(すき)あらば私たちを誘(さそ)い、信仰から引き離そうとします。その心理に抵抗する術は神の言葉です。神の言葉に耳を傾(かたむ)け、心に蓄(たくわ)え、ヒントとし、ガイドとしながら生きることです。
信仰生活は、常にこの葛藤(かっとう)、戦いです。だからこそ悔い改めが必要です。神さまに心を向けて立ち帰る悔い改めが必要なのです。宗教改革者マルチン・ルターは、悔い改めとは一度きりのものではなく、全生涯を通して悔い改めが求められている、と言いました。神の言葉に聞き従い、どんな時も神の愛を信じ、立ち帰りながら進みましょう。

 

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