坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「ヘブンリーランドに入場するには」

2023年6月25日 主日礼拝説教                    
聖 書  マタイによる福音書4章12~17節
説教者  山岡 創牧師

◆ガリラヤで伝道を始める
12イエスは、ヨハネが捕(と)らえられたと聞き、ガリラヤに退(しりぞ)かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15「ゼブルンの地とナフタリの地、
  湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
  異邦人のガリラヤ、
16暗闇に住む民は大きな光を見、
  死の陰(かげ)の地に住む者に光が射(さ)し込(こ)んだ。」
17そのときから、イエスは、「悔(く)い改(あらた)めよ。天の国は近づいた」と言って、宣(の)べ伝え始められた
「ヘブンリーランドに入場するには」
 約3年続いたコロナ禍の中で、日本国内でも様々なイベントが縮小されたり、人数制限がなされてきました。かく言う私たち坂戸いずみ教会でも、昨年11月まで礼拝を2グループに分け、隔週で出席する方法で行い、1度の礼拝が20~30名ぐらいになるように人数制限をせざるを得ませんでした。
 そのように人数制限がなされた大人気のテーマ・パークの一つが、東京ディズニーランドでしょう。ディズニーランドの最大収容人数は7万人ということですが、コロナ禍の中では2万人程度に、もっと少ない時は5千人に抑えられている期間もあったようです。入場チケットを現地販売せず、ネット上で販売する形で1日の入場者数をコントロールしていました。コロナ・ウィルスの位置付けが感染症第5類になったことで、様々な制限が緩和され、色んな場所に出かけやすくなったことは、ちょっと嬉しく思います。
 ところで、ヘブンリーランドには、最大収容人数や入場制限はあるのでしょうか?そもそもヘブンリーランドって、何だ?という話ですが、皆さん、お気づきかと思いますが、「天の国」を、私がディズニーランドっぽく、英語にしたものです。
 さて、そのヘブンリーランド、「天の国」ですが、最大収容人数は無限だと思います。主イエスは、最後の晩餐(ばんさん)の席で弟子たちに、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(ヨハネ14章2節)と語っています。天の国には住むところがたくさんあるのです。そして、天の国のオーナーである父なる神さまの御心(みこころ)は、「一人も滅(ほろ)びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられる」(Ⅱペトロ3章9節)ということですから、すべての人を「天の国」に迎え入れるつもりなのでしょう。そう考えると、天国の収容人数は、地上で生きたすべての人の人数分は用意されている、そしてこれからも増えていく、すべての人が悔い改めるまで無限に増えていく、ということです。
 では、入場制限はあるのでしょうか?ありがたいことに入場制限はありません。でも、入場するには定められた方法が必要です。その方法が「悔い改め」です。
       *
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17節)。洗礼を授かったヨハネの後を受け継ぐかのように、主イエスはこう言って、ガリラヤ地方で宣教を開始されました。
 ところで、主イエスが宣教された「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、ヨハネが直前の3章2節で宣べ伝えた言葉と全く同じです。主イエスは、ヨハネの教えの内容をそのまま受け継(つ)いだということでしょうか?いや、そうではないと私は考えています。言葉は同じでも、中味は全く違うと思います。
 ヨハネは、このように宣べ伝え、ヨルダン川で洗礼を授(さず)けましたが、洗礼を受けに来たユダヤ教の主流派であるファリサイ派やサドカイ派の人々を非難しました。なぜなら、彼らが“見せかけの悔い改め”というポーズで洗礼を受けに来たことを見抜いたからです。そして、「斧は既(すで)に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3章10節)と語りました。つまり、天の国に入るために悔い改めよ、と説きながら、そこに猶予(ゆうよ)はなく、悔い改めなければ、神さまから見放され、すぐにも地獄の火に投げ込まれると、まるで脅(おど)しているかのようです。ヨハネの天の国と悔い改めの本質は、“喜びと安心”と言うよりは“裁(さば)きと滅(ほろ)び”だと言えます。
 他方、主イエスはどうでしょうか?ヨハネの「良い実を結ばない木」の話から、私は、主イエスが語られた〈実らないいちじくの木〉のたとえを連想しました。ぶどう園の主人が、その土地にいちじくの木を植えたのですが、3年待っても実がつかないので、切り倒せと園丁(えんてい)に命じます。ところが、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません」(ルカ13章8節)と言って、主人を思い留まらせます。そこには猶予があります。ゆとりがあります。裏返せば忍耐があり、一言で言うなら“愛”があります。園丁は最後に「もしそれでもだめなら、切り倒してください」(13章9節)と言うのですが、それは主人を納得させるための方便です。来年も実がならなかったら、彼はまた「今年もこのままにしておいてください」と言うに違いありません。
 つまり、主イエスの宣教は、言葉は同じでも中味は全く違う。悔い改めに猶予があり、待ってくださるという安心があり、こんな自分でも天の国に受け入れられるという喜びがあり、感謝があります。それが主イエスの救いであり、父なる神の御心なのです。
       *
 「天の国」は「近づいた」、近づいていると言われます。つまり、単に死んだ後で行く“あの世”、別次元の世界ではなく、今、ここで生きている時に感じることができ、味わうことのできる“目には見えない国”、心の世界です。「暗闇(くらやみ)に住む民」(16節)が、「死の陰の地に住む者」(16節)「光」を見ることができる、「光」に照(て)らされる世界です。
 ガリラヤ地方には、カファルナウムの町には、暗闇の中を歩き、死の陰を生きる人々が少なからずいたのだと思います。ユダヤ教の主流派の人々からさげすまれる混血のユダヤ人。徴税人や遊女など律法を守れず、罪人と見なされる人々。そして、神の祝福に選ばれず、見捨てられた異邦人。つまり、ユダヤ人社会において、信仰的に、社会的に優秀、立派と見なされている人々、自負している人々から、“お前たちはだめ人間だ。天の国には入れない”と見下された人々です。自分でも自分をそのように見なし、傷つき、落ち込み、神の愛によって与えられている本来の自分の価値を信じられない人々です。
 そのような人々のもとに行って、主イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたのです。それは言い換えれば“あなたは愛されている。そのことに気づきなさい”という呼びかけです。悔い改めとは単に、悪い行いを改善するとか、悪い思いを改めるということではありません。人としての自分の価値を見失った者が、それを再発見することです。神の救いの御心に自分の心を向け、神に愛され、大切にされていることを信じ、そこに人間本来の自分の価値を見出し、喜び、安心して生きるようになることです。その喜びと安心の人生こそ「天の国」です。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」。あなたは愛されている。そのことに気づきなさい。私たちにも語りかけられています。すぐに気づかなくてもだいじょうぶです。猶予があります。来年も再来年も‥‥一生涯、猶予があります。〈放蕩(ほうとう)息子のたとえ〉のように、主イエスは、父なる神は、私たちが気づいて帰って来るのを待っていてくださいます。
 いや、死んでからでも、まだだいじょうぶです。死後の霊(魂)の世界にも宣教される主イエスが、あの世の天の国の入口で、悔い改めることを待っていてくださいます。そこで一言、“悔い改めます。あなたに愛されていることを信じます”と言えば、ヘブンリーランドに入場が許可されます。愛と忍耐の神は、一人も滅びないで皆が悔い改めるように、私たちを待っていてくださるのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム