坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「転職?いや、転生」

2023年7月2日 主日礼拝説教              
聖 書 マタイによる福音書4章18~22節
説教者 山岡 創牧師
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
 「転職?いや、転生」
 もう30年以上も前になりますが、私は神学生として、牧師になるべく神学校で学んでいました。今日の聖書の話ではありませんが、牧師になるようにと主イエスから召されている、という思い(召命感)がありました。
神学校の同級生は、ほぼ同じ年齢の学生たちばかりがいたわけではありません。様々な年齢層の人がいました。中にはそれまで続けて来た仕事を辞(や)めて、神学校に入学した人もいました。配偶者や子ども、家庭のある人もいました。私は神さまから召された時、まだ仕事も家庭もなく、ある意味、自分独りで祈り、独りで決めたようなものでした。でも、家庭のある人は家族を、特に自分の妻を、夫を、どのように説得したのだろうか?仕事を辞めることを納得してくれたのだろうか?二人で祈って決めたのだろうか?‥‥その葛藤(かっとう)と決断の重みを感じました。まさに「網を捨て」(20節)、「舟と父親とを残して」(22節)、主イエスに従ったと言うことができます。
      *
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(20節)。主イエスはこう言って、ペトロとアンデレを、またヤコブとヨハネをお召しになりました。今日の聖書箇所のタイトルにも“弟子”とあり、この後5章からは「弟子」という言葉が何度も出てきますが、主イエスについて行き、人間をとる漁師として生きる者を“弟子”と呼ぶのでしょう。そして、そのような弟子を現代的に考えると、それは牧師とか聖職者のように思われますが、必ずしもそうではない、それだけではないと思います。主イエスに召され、「人間をとる漁師」の本質を生きようと志す人は、そしてそれゆえに洗礼(せんれい)を受け、クリスチャンとして歩む人はだれでも、主イエスの弟子だと言うことができるでしょう。
 それにしても、イエス様、うまいこと言うなぁ、と(上から目線のようですが)感心します。魚をとる漁師に、「人間をとる漁師にしよう」だなんて、何だか心をくすぐられるような誘い文句ではないでしょうか。
 もちろん、この一言に乗せられて、彼らが網を捨て、舟と父親を残して主イエスについて行ったというような、そんな単純な話ではないと思います。そこに至るまでには、彼らの事情や気持、そして主イエスとの関係性があったに違いありません。でも、マタイはそのような事情や気持、プロセスは省(はぶ)いて、ただ主イエスが彼らを「人間をとる漁師」に召され、彼らがそれに応じた、ということだけを書いています。自分でついて行こうとしたのではなく、主イエスから召されて、従った。そこが肝心なところです。
 ところで、洗礼を受けようと願っている人に、その思いが固まって来た時、洗礼準備会というものを行います。洗礼を受けるとはどういうことか?また教会の一員となって信仰生活をするとはどういうことか?そのことを牧師と共に学びます。その準備会の中で、私が問いかけ、お話することがあります。それは、自分が神さまから召されたと感じていますか?ということです。
 今回、受洗を志すに当って、何らかの動機や理由があったと思われます。単に人に勧められたからといったことではなく、何らかの動機や理由があって自ら洗礼を望み、志すという主体的な決断が大切なのは言うまでもありません。
 しかし、何らかの動機や理由があって洗礼を望むに至る過程の中で、“自分が望んだ”というだけでなく、“神さまに召された”と思われる面があったでしょうか。
 主イエス・キリストの弟子たちは、例えば漁師をしていたり、徴税人(ちょうぜいにん)をしていたのが、主イエスに召されて弟子となり、従って行きました。その弟子たちに、主イエスは最後の晩餐(ばんさん)の席で次のように語っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネによる福音書15章16節)。
 確かに、私たちは自分の意志で教会に通い、洗礼を望んだという面はあるでしょう。しかし、自ら望んだだけの洗礼は、教会や信仰のことで気に入らないことが起こった時、信仰以上に魅力的なものを見つけた時、離れていくのも早いのです。しかし、そのような自己本位な生き方を、神を思い、隣人を思う生き方へと変えるために洗礼を受けて信仰生活を始めるのです。神があなたを呼んでいるか。主イエスがあなたを召しているか。その声は心の中で確かでしょうか。もう一度自分の内を見つめ、神の召しの声を受け止めましょう。
 準備会の時、こんな文章でお話をさせていただきます。主イエスの弟子とは、「わたしについて来なさい」と召された者なのです。人生は“召されたもの”、召された場所があり、召された家庭や人間関係があり、召された境遇があると信じて生きる人のことです。
       *
 そして、召された者は、召された場所で「人間をとる漁師」として生きる生き方を、主イエスから求められています。ペトロたちは、魚をとる漁師から「人間をとる漁師」に、言わば“転職”しました。職種は“漁師”のままですから、職場が変わったというか、漁をするターゲットが変わったというか、表向きはそのように思われます。
 けれども、「人間をとる漁師」の本質を考えてみると、これは転職と言うよりは、“転生”だと思います。職を変えたのではなく、生き方を転換した、ということです。
 それは単純に、伝道して教会に人を集め、弟子(教会員)にするということではありません。転生とは、“自分のために”から“相手のために”という志向に生き方を転じたということです。魚は“自分のために”とります。とった魚を売り、利益を上げ、自分の生計を立てます。でも、人間を自分のためにとったらどうなるでしょう?それは、相手を利用するとか、食いものにするとか、支配するとか、踏み台にするとか、そういうことになるでしょう。もちろん主イエスはそのようなことを望んではいません。
 「人間をとる」とは、自分のためにとるのではなく、“人のために”とるということ、相手のために相手をとる、ということです。それは、その人が喜ぶように、元気が出るように、慰められるように、癒(いや)されるように、安心できるように、救われるように、その人をとる、ということです。一言で言うなら、その人を“愛する”ということでしょう。「人間をとる漁師」とは、相手を愛する者、相手のために幸せを、救いを願って行動する者です。自分のために、という自己中心から、“人を愛するために”へと転生した者、生き方を転換しようと祈り、努めている人のことです。
 そして、人を愛するためにはきっと、“何か”を捨てることが必要になります。一人ひとり、捨てる何かは違いますし、大きい場合も小さな場合もありますが、愛するために何かを捨てる。いや、捨てるというよりは、相手のために積極的に“献げる”ことが必要になるでしょう。嫌々ではできません。それは召しに応じる主体的な愛の決断です。
 私たち坂戸いずみ教会の願いは、“キリストの愛とともに歩み”、キリストが私たちを愛してくださったように「互いに愛し合う」(ヨハネ13章34節)ことです。まさに、この人を愛する生き方、愛し合う生き方、「人間をとる漁師」へと転生することに、私たちは召されているのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム