坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「逆転“幸せ”ホームラン」

2023年7月9日 主日礼拝説教            
聖 書 マタイによる福音書5章1~12節(1)
説教者 山岡 創牧師


1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
幸い
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰(なぐさ)められる。
5柔和(にゅうわ)な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6義(ぎ)に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7憐(あわ)れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

   「逆転“幸せ”ホームラン」
 アメリカのプロ野球、通称“大リーグ”でプレーする大谷翔平選手の活躍が止まりません。大谷選手のことはご存じの方も多いと思いますが、彼は“二刀流”と言われ、ピッチャーとしても、バッターとしても大活躍しています。
 2017年に大リーグのエンゼルスに移籍した大谷選手は、当初“二刀流は不可能”と言われましたが、2021年のシーズンには何と!MVP(年間最優秀選手賞)を獲得したのです。今シーズンも前半戦を終えた時点で、ホームラン31本、66打点とバッターの2部門でトップを走り、ピッチャーとしても7勝を上げています。パワーの大リーグで、もし日本人選手がホームラン王になったら‥‥そんな期待を抱いて、ワクワクしながら大谷選手の1試合、1打席をとても楽しみにしています。
 ところで、野球の試合で9回裏、最終回の攻撃で、負けているチームがホームランで逆転し、勝利する。これを“逆転さよならホームラン”と言います。このホームランで勝つと、めちゃくちゃ盛り上がります。
 全く関係がないのですが、今日の聖書箇所の説教題を考えている時に、たまたま大谷翔平選手のことを思い浮かべて、ふと〈逆転“幸せ”ホームラン〉という題を思いつきました。主イエスが山の上で語った「幸い」の教えのうちの幾つかは、不幸から「幸い」へ、言わば人生の逆転を物語っています。そして、この教えがストンッと自分の腑(ふ)に落ちたら、逆転さよならホームランと同じようにインパクトが大きいと思ったのです。主イエスという“人生のコーチ”“信仰のコーチ”の助言(御言葉)で逆転“幸せ”ホームランを打つことができたら、私たちの人生はまさしく「幸い」なのではないでしょうか。
       *
 さて、主イエスが語る〈幸いの教え〉ですが、この世の価値観からすれば明らかに、幸いじゃないでしょう?!というものが幾つかあります。その最たるものが、いちばん最初にある御(み)言葉ではないでしょうか。「心の貧しい人は、幸いである」(3節)。
 いやいや、心が豊かな人は幸いである、なら分かるよ、と思いませんか?ちなみに、“心が豊か”という意味を辞書で調べてみると、人の好いところを見つけたり、現状に感謝していたり、他人の幸せを願うことができるといった心情のことです。あるいはまた、心が穏やかで平和であり、愛情がある状態だということです。確かに、その心の状態は幸いだと言ってよいでしょう。
 けれども、主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と語ります。どうしてでしょうか?心が満たされず、欠乏を感じ、不平や不満ばかりを感じている状態の何が幸いなのでしょうか?‥‥いや、そうではなくて、全く別の意味があるのだと思います。
 もしコップの中に既に何か飲み物が入っていたら、何も入れることはできません。しかし何も入っていなければ、何かを注いで入れることができます。心が「貧しい」とは、そういうことではないかと思います。だからこそ、そこに何かを入れることができる。必要なものを満たせる状態、ということではないでしょうか。
例えば、ある人の心が野心に満ちあふれていたら、他のものは入りません。お金がいちばん!という価値観でいっぱいだったら、違う価値観を受け付けないかも知れません。頼れるものは“自分”だけ、と思っていたら、そこに自分以外のものを信じて頼る、という考えは生まれません。つまり、自分の心が自分の欲望とか、価値観とか、人生観とか、自信とか、そういうものでいっぱいだったら、それはある意味で幸せな場合もあるでしょうが、でも、主イエスが語る「幸い」は、その心には入って来ないでしょう。
 けれども、私たちは、大きな挫折(ざせつ)を味わったり、何か大切にしていたものを失ったり、“あれっ、実はこれは何かが違うのではないか?”といった違和感を感じたりすると、それまで心に納めていた自信や価値観が揺(ゆ)らぎます。そこに、新しいものが入る余地が生まれます。あるいは、自分の心を占めていて、支えていたものが根こそぎ奪い去られるような場合もあります。それに代わる支えが、癒(いや)しが、希望が見つからなければ生きてはいけないように思うこともあります。「心の貧しい」状態とは、そういうことではないかと思うのです。そして、それは聖書を通して“神”と出会い、神の愛によって穴の開いた、空っぽになった心が満たされ、救われるチャンスでもあるのです。
旧約聖書・詩編51編の作者は次のように語りました。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(19節)。主イエスが語る“心の貧しさ”とは、この「打ち砕かれ悔いる心」と重なり合うと思います。何らかの挫折や苦悩や違和感によって、自分の欲望や価値観が打ち砕かれた心の状態、それゆえに心を満たす神の救いを、愛を求めている(=悔いる)状態です。
       *
 星野富弘さんという人を、皆さんの多くがご存じでしょう。体育の授業を指導していて、器械体操での宙返りに失敗し、首を骨折して、首から下の体が麻痺(まひ)して全く動かなくなってしまった。星野さんが24歳の時のことです。絶望し、自分の人生を呪い、“今日はよい天気だなぁ。ちくしょう”と二言目には無意識に不平の言葉が漏れるような苦しみの中を生きておられました。それこそ、今まで築き上げて来た自信も、価値観も、生き方も、根こそぎ失ったのです。
けれども、そんな星野さんが、病院のクリスチャンの看護師を通し、また訪ねて来る牧師を通して、聖書を読むようになり、やがて“神”と出会うのです。首から下が動かない。こんな不幸な現実の中にあっても、神は自分のことを愛してくださり、大切な、価値ある者と認めてくださり、置かれた場所で生かしてくださるのだ。そう信じた星野さんは洗礼を受けてクリスチャンになります。そしてそ、口に絵筆を加えて、草花の絵を描き、その絵に(信仰の)詩を添(そ)えるようになります。
何のために生きているのだろう 何を喜びとしたらよいのだろう
これからどうなるのだろう
その時 私の横に あなたが一枝の花を置いてくれた
力を抜いて 重みのままに咲いている 美しい花だった(『鈴の鳴る道』66頁)
私の好きな星野富弘さんの詩です。障がいを負い、挫折し、人生の目的も、喜びも、自信も、生きる道も失った星野さんが、“神”と出会い、自分の力に頼るのではなく、神さまにゆだねて、生かされて生きる道があることを知った感動が花を通して表わされています。言わば、大逆転“幸せ”ホームランを、星野富弘さんは打ったのです。 
そして、神の愛の下に喜び、感謝して、穏やかに、人を愛して生きることができる人生こそ「天の国」です。神さまと出会った人の人生は、神さまが共にいてくださる「天の国」になるのです。だから、「天の国はその人ものである」(3節)と言われます。そこには、この世の価値観で計る幸せとは違う“幸い”があります。
私たちの人生もまた、いつも平坦で、安定しているとは言えません。悩むことも、迷うこともありますが、御言葉に耳を傾け、信じて人生という“打席”を重ねていけば、きっと逆転“幸せ”ホームランを打つことができます。何度でも逆転できます。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム