坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神を見る人々」

2023年7月16日 主日礼拝説教           
聖 書 マタイによる福音書5章1~12節(2)
説教者 山岡 創牧師
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
幸い
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰(なぐさ)められる。
5柔和(にゅうわ)な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6義(ぎ)に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7憐(あわ)れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

「神を見る人々」
 山に上り、主イエスが最初に語られた〈幸いの教え〉には、「幸いである」と言われた後に、訳されていませんが、すべてに“なぜなら”という言葉が入っています。つまり、なぜ幸いなのか?その理由が後の言葉で言われているわけです。例えば、「心の清い人々は、幸いである」、なぜなら「その人たちは神を見る」(4節)からだ、というつながりになっているわけです。
 ところで、8つの〈幸いの教え〉の中で、抽象的で分かりづらいのは、1節と、この9節ではないかと思います。「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」(9節)。心が清いとはどういうことだろう?神を見るとはどういうことだろう?神を見たら、どうして幸いなのだろう?‥‥‥そんな疑問が次々と浮かんできます。
 心が清いとはどういうことでしょうか?‥‥誠実である。正直である。素直である。裏表がない。狡(ずる)さがない。自分の利益を優先せず、相手のことを考える。自己弁護をせず、自分の過ちや失敗を認めることができる。‥‥そんな心を思い浮かべます。
       *
 ふと岩手県出身の詩人・宮澤賢治の詩〈雨にも負けず、風にも負けず〉を思い起こしました。長くなりますので、「心が清い」ということをイメージする部分だけを挙げると、
 ‥‥慾(よく)はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている、‥‥
 ‥‥あらゆることを自分を勘定(かんじょう)に入れずに、よく見聞きし、分かり‥‥
 ‥‥東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行って
その稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い、
北に喧嘩(けんか)や訴訟(そしょう)があれば、つまらないからやめろと言い、
日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶(でく)の坊と呼ばれ、
ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい。(ひらがな修正)
 まさに心の清い人の姿だと思います。しかし、この詩を引用して、かつて説教をされたある先生がこう言いました。“そういうものに私はなれない”。その言葉を、私はとても印象深く覚えています。そういうものに私はなれない。自分を省みて、そのように感じます。誠実、正直、素直で、裏表も狡さもなく、自分の利益を求めず、自己弁護をしない。もし主イエスが求めている心の清い弟子というものが、このような人であるならば、私にはとてもなれない、無理だ‥‥そう思ってしまうのではないでしょうか。
 けれども、主イエスが求めている「心の清い人々」というのは、少し違う気がします。主イエスは、一般的な意味で清い心そのものを求めてはいない。もう一言加えて言えば、私たちに、自分の力で清い人になれ、とは言わないと思うのです。むしろ、自分の心が清くないことを認め、そこから始めることを求めておられる。心の清くない自分に絶望せず、また、どうせこんなもんだ、しょせん無理だと開き直るのでもなく、そんな自分の心が、自分のことも他人のことも傷つけ、汚していることに気づいてほしい。そして、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と打ち砕(くだ)かれ、悔い改める人になってほしい。そういう心を期待しておられると思うのです。
       *
 旧約聖書・詩編51編に次のような言葉があります。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(12節)。そして、更にこう言います。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨(みむね)にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮(あなど)られません」(18~19節)。打ち砕かれ悔いる心に、神さまは清い心を創造し、新しい霊を授けてくださることに、この人は気づいたのです。
 この詩編51編は、ダビデ王の詩だと言われています。イスラエル王国2代目の王として、領土を広げ、国を繁栄させたダビデ王の心には、驕(おご)りと慾が生じたのかも知れません。王宮の屋上から美しい女性を見つけた王は、その女性を王宮に連れて来させます。それは自分の家来であるウリヤの妻バト・シェバでした。そのことを知りながら、王は姦通(かんつう)の罪を犯します。神の掟では、姦通の罪は死罪に当たります。しかし、ダビデ王は何事もなかったかのように振る舞い、家来たちも見て見ぬふりをしました。
 ところが、バト・シェバが妊娠します。夫ウリヤは長らく戦場で戦っていて、家には帰ってきていません。だから、この事実を隠ぺいすることができなくなった。焦ったダビデ王は、ウリヤに休暇を与え、家に帰そうとします。それでウリヤが性行為をすれば、それで誤魔化せると思ったのです。ところが、ウリヤは実直な人で、戦場の仲間を思い、家には帰らず、王宮の兵舎に泊まりました。この手はだめだ!そう思ったダビデ王は一計を案じます。戦場の司令官に手紙を書き、ウリヤを戦闘の激しい最前線に出し、彼を残してわざと退却し、ウリヤを戦死させよと命じます。その思惑通り、ウリヤは戦死し、葬儀が終わると、ダビデ王は未亡人となったバト・シェバを妻に迎えたのです。
 この出来事の一部始終を知って預言者ナタンがダビデ王のもとにやって来ます。何食わぬ顔で、彼はこんな話をしました。王様、王様のおひざ元にけしからん男がいます。とても豊かで、多くの家畜を所有しているのですが、彼のところに客がやって来ました。その客をもてなすのに、彼は自分の牛や羊を惜しんで、たった一匹の羊しか持っていない男から、その羊を奪って料理に振舞ったのです。
そんな無慈悲なことをした男は死罪だ!そして、4倍の償いをすべきだ!神さまの目は誤魔化せないぞ!‥‥激怒して叫ぶダビデ王にナタンは告げます。「その男はあなただ」(サムエル記下12章7節)。ダビデ王は愕然(がくぜん)とします。もはや言い逃れることはできません。「わたしは主に罪を犯した」(13節)。自分の罪を認めたダビデ王に、罰は罰としてナタンは神の憐れみを語ります。「その主があなたの罪を取り除かれる」(13節)と
この時、ダビデ王が告白したのが詩編51編です。自分の心は清くない。汚れに満ちている。人を傷つけている。それを誤魔化そうとする。隠ぺいしようとする。神さま、そんな私を憐れんでください。清い心を造ってください。ダビデはそう祈ったのです。
       *
 もちろん、私たちはこれほどのことはしないでしょう。けれども、私にも覚えがあります。誤魔化し、正当化し、過ちや失敗を認めたくない、人を傷つけたことを認めたくない自分がいます。多かれ少なかれ皆、覚えがあるのではないでしょうか。清い人になりたい。でも、なれない。自分の力ではなれない。
だからこそ、打ち砕かれ、悔いることが必要です。心が清いとは、神の言葉によって自分の心の罪を認めることです。取り繕(とりつくろ)おうとする自分が打ち砕かれることです。そして、そのような自分でも、神さまに愛され、赦(ゆる)され、生かされることに気づき、信じることです。それが神の求める“清い心”の原点です。
そして、神の愛と赦しに気づき、信じることが、「神を見る」ということにほかなりません。それは、神さまの真骨頂に(心が)触れるということです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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