坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「義を求めて」

2023年7月23日 主日礼拝説教          
聖 書 マタイによる福音書5章1~12節(3)
説教者 山岡 創牧師

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
幸い
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰(なぐさ)められる。
5柔和(にゅうわ)な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6義(ぎ)に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7憐(あわ)れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

     「義を求めて」
 私たちの教会を開拓伝道によって生み出した川越市の初雁教会は、ホーリネスの群れという教派に属する教会です。もちろん、日本基督(キリスト)教団の教会なのですが、この教団は、太平洋戦争の際に宗教団体法によって様々なプロテスタントの諸教派が一つにまとめられた団体です。だから、かつての教派の伝統が、今もかなり生きています。
 そのホーリネスの群れの諸教会が、先日6月25日に〈弾圧記念聖会〉という集まりを行ったことを耳にしました。太平洋戦争中に、日本基督教団の中で、ホーリネス系の2つの教派の教会だけが迫害され、弾圧を受け、教会は解散、多くの牧師が投獄されました。天から再びおいでになるイエス・キリストこそ真の神であり、当時、現人神(あらひとがみ)と崇(あが)められた天皇をも支配する、と証言したからです。その時の迫害、弾圧を忘れないための集会です。
 私は神学生だった時、夏休み中の教会実習を静岡草深教会でさせていただきました。その教会の牧師・辻宣道先生の父親であった辻啓蔵牧師もホーリネスの牧師として弘前で投獄され、そのまま獄中で亡くなられました。おそらく拷問(ごうもん)を受け、亡くなったものと思われます。辻宣道先生が中学2年生の時でした。一家に働き手がなく、解散させられた教会の元教会員のもとにカボチャを分けてもらいに行った時、“おたくに分けてやるカボチャはないねえ”と言われ、辻先生は大きなショックを受けたといいます。それもまた、一つの迫害と言えるかも知れません。
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 「義(ぎ)のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(10節)。主イエスが語った〈幸いの教え〉の中で、「義」という言葉が6節と10節に2回出てきました。「義に飢え渇く」「義のために迫害される」です。太平洋戦争中、ホーリネスの教会と牧師は「義のために迫害され(た)」と言ってよいでしょう。
 ところで、「義」とは何でしょうか?主イエスが語っている「義」、聖書が表わす「義」というのは、人道的な意味での正義や、法律的な意味での正義とはちょっと違います。聖書的な「義」とは、神さまとの関係が正しいものであるということです。神さまとの正しい関係を求めるがゆえに、人道的な正しさや法律的に正しい行動と重なり合うことももちろんありますが、先にお話したホーリネスの教会と牧師のような行動となり、迫害されることもあるわけです。「義」の基準は人道ではなく、法律でも国家でもなく、神さまとの関係にあります。
 ユダヤ人は「義」を追い求めました。それは、イスラエル王国滅亡という歴史に対する反省に立っての行動でした。かつてダビデ王の下に栄えたイスラエル王国はその後、大国に滅ぼされました。主イエスの時代にもローマ帝国に支配されていました。相手が圧倒的な大国なのだから仕方がない‥‥とはユダヤ人は考えませんでした。自分たちは神に選ばれ、神に立てられ、守られている国である。それなのに滅んだのは、自分たちが神さまとの正しい関係を損(そこ)ない、神さまに背(そむ)いたからだ。主イエスの当時のユダヤ人、特にファリサイ派の人々はそのように考え、真剣に、神さまから「義」と認められるように生きようと努力しました。彼らにとって、神さまとの正しい関係とは、神の掟である律法(りっぽう)を自分たちが守って生活することでした。その願いは尊いものであったかも知れません。けれども、その結果、彼らは自分たちの生活を誇り、律法を守れない人々を否定しました。“天の国は、お前たちのような人間のものではない”と。
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 けれども、主イエスは、そのようなファリサイ派の生き方を、神さまとの正しい関係、「義」とは考えませんでした。主イエスが語られたたとえ話から、それが分かります。ファリサイ派の人と徴税人(ちょうぜいにん)が、祈るために神殿にお参りしました。ファリサイ派の人は、律法を守る自分の行いを誇り、徴税人を見下しながら祈りました。他方、徴税人は、遠くに立って、顔も上げず、胸を打ちながら、「神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と祈りました。ファリサイ派の人の行いは、だれもまねのできないような立派なものだったかも知れません。けれども、主イエスは言います。「義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。
 徴税人は自分の姿に打ちひしがれていました。自分の心に、正しいと誇れるものを何も持っていませんでした。だから、「憐れんでください」としか祈れないのです。でも、その祈りを、その心を、神さまは求めておられるのです。
そしてそれは、3節で語られている「心の貧しい人々」と同じです。打ち砕かれ、悔いる心(詩編51編19節)の人です。「心の貧しい人々」「義のために迫害される人々」は本質的に同じです。だから、同じ幸いが約束されている。「天の国はその人たちのものである」と。「正しい人」になれない。自分の力で「義」を生み出せない。そんな自分を見つめた時、打ち砕かれて、神の憐れみを願う以外に道はない。けれども、そこに逆転が起こる。そのような人に神の憐れみが、神の愛が注(そそ)がれるのです。
そして、神の愛の下に喜び、感謝して、謙遜に、愛されたからこそ人を愛して生きようとする人生こそ「天の国」です。神さまの愛に満たされた人の人生は、神さまが共にいてくださる場所になる。それが「天の国」、神の国です。だから、「天の国はその人ものである」(3節)と言われます。
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弟子たちは当初、この教えが分からなかったかも知れません。けれども、主イエスが十字架に架けられた時、弟子たちは見捨てて逃げ、裏切り、主イエスとの関係を否定しました。自分の意思と力では「義」に生きることなんてできない!彼らはその現実をいやというほど味わいました。打ち砕かれて悔いる心でいっぱいになりました。
そんな弟子たちが、復活した主イエスと出会い、神の愛によって赦(ゆす)され、生かされ、再び立てられたのです。そして、彼らは“使徒”となって、律法ではなく、自分の行いではなく、神の愛によって赦され、認められ、生かされる救いを宣(の)べ伝えました。神の愛によって、恵みによって救われる。それが、彼らが信じて受け止めた神さまとの正しい関係、「義」でした。
使徒たちの伝道によって、信じて受け入れる人々が起こり、主イエスを信じて従う教会が生まれました。主イエスと使徒(しと)たちが迫害されたように、教会もその後、律法を重視するユダヤ人たちから、“お前たちの信仰は神への冒涜(ぼうとく)だ!”と見なされ、迫害されました。現代社会でも行いと結果が重視され、価値付けがされます。けれども、自分の行いを誇らず、自分の正しさにうぬぼれず、絶えず神さまの愛を祈り求め、愛に生かされ、愛に感謝して謙遜に歩む人こそ、神さまの御心(みこころ)に適(かな)うのです。行いではなく、恵みによって、愛によって生きる。それが「義」の信仰、私たちの信仰です。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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