坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「平和を実現する」

2023年8月6日 平和聖日礼拝説教              
聖 書 マタイによる福音書5章9節
説教者 山岡 創牧師

9平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。

「平和を実現する」
神さま、戦争のただ中を生きてきた者として
平和であることを心から祈り続けたいと思います。
大空襲の中、まだ火が燃え続ける道をあちこちさまよい続けたことが幾度かありました。
ようやく人の姿をしている、無残に焼け焦げた死体の間を歩きました。
防空壕(ぼうくうごう)の中で蒸し焼きにされた女性や子供たちが、まるで人形のようでした。
呼びかければ起き上がって来るような死んだ人の面影(おもかげ)は今も心の中に焼きついています。
もはや人の形がなくなったような、内臓器官が飛び出していて、腐ったごみのように
なった死体。 つい昨日まで生き、愛し、人間として語り、行動して来た人たちが、
汚い焼けただれた一個の死体となる。
戦争という人殺しの恐ろしさを少年の目でしっかりと見てきました。
人間が人間として生きえない世界。
かけがえのない存在である人間を 虫けらのように殺し、平然としている戦争。
権力政治に対して生命をかけて抵抗し続ける信仰を与えてください。
 今日の説教の準備をしながら、牧師室の壁に、この言葉が貼(は)り付けられてあることに、私はふと気づきました。一行一行を読みながら、私の心に重たい何かが残りました。この言葉が心から離れなくなりました。
これは、既に天に召された石井錦一という牧師が、その著書『信じられない日の祈り』の中に記した〈戦争という人殺し〉と小見出しの附いた詩であり、祈りです。しかも、この言葉が手書きで書き記(しる)された1枚の紙が、私の部屋に貼ってありました。現在、長期入院療養されている教会員の新井知子さんが書いたものでした。石井牧師の言葉の横に一言、“同年代を生きた少女の目でしっかり見てきました”とつづられていました。2009年8月2日の日付で、“2度目の八王子の罹災日(りさいび)を思いつつ”とありました。
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78年前の太平洋戦争のただ中で、石井錦一牧師が見て来たもの、新井知子さんが見て来たもの、そしてその言葉に、私は問われている思いがしました。私は今、何を見ているのだろう?何も見えてはいないのではないだろうか?そう感じました。
ロシア軍のウクライナ侵攻が2022年2月24日に始まって、もう1年半になろうとしています。時々テレビのニュースで、またYoutubeの動画で、この戦争の現状を知ります。でも、何も見ていない。何も見えていないのではないだろうか。いつも祈ってはいます。でも、それは私の生活に直接関係のない“対岸の火事”のような出来事なのです。だから、祈ってはいても、その祈りはどこか空虚(くうきょ)だと感じます。
日本国憲法第9条を改正しようとする動きが政府にあり、第9条を擁護(ようご)しようとする人々の間で改正の危機が叫ばれています。もちろん、改正の問題についてはクリスチャンの中にも様々な立場や意見もあるでしょうが、私は、憲法9条の存在が、将来、日本が軍事力を積極的に使用し、戦争さえするかも知れないことに歯止めをかけている大切な防波堤だと考えています。けれども、私は何を見ているのだろうか?何も見ていない。何も見えてはいないのではないだろうか。頭ではそう考えてはいても、憲法改正についてそれほどの危機感を感じてはいない。危機感を抱いて祈り、あるいは行動していない。
平和について、私はボーッと生きている自分だということを、今日の説教を準備しながら改めて考えさせられました。
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 平和について、私は何も見えていないのだろうか?‥‥‥クリスチャンとして、これだけはしっかりと見ていきたいものがあります。見逃しては信仰生活が成り立たないと思うものがあります。それは、父なる神が、主イエス・キリストの十字架によって、“私”との間に、私たち一人ひとりとの間に、平和を実現してくださったという恵みです。
 パウロは、ローマの信徒への手紙5章1~2節に、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て(いる)」と記しています。「義」というのは、罪人であるために神さまとの関係を損(そこ)ない、受け入れられないはずの私たちが、神に赦(ゆる)され、認められ、愛される存在にされる、ということです。そのために、神は主イエス・キリストを十字架にかけて、私たちの「罪を償う供え物」(同3章25節)となさったのです。赦され、認められ、愛される。神さまとのこの関係性こそ、信仰によって味わう平和です。
 罪とは、単に犯罪といった法的な概念(がいねん)ではなく、人の生き方として広い意味があります。人と争い、エスカレートすれば戦争さえ起こしてしまうような私たちの心の問題、エゴであり、欲望であり、自己優先、自己保身の心も罪であると言えます。そういう自分の心に気づき、“自分は正しい人間だ”という正当化の思いを砕(くだ)かれて、悔い改めることから、私たちクリスチャンの歩みは始まります。そして、主イエスのたとえ話に出てくる徴税人(ちょうぜいにん)のように、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と心から祈ります。その悔い改めと祈りのある人が、神に「義」とされると主イエスは語ります。赦され、認められ、愛されます。その恵みを信じる時、私たちは安心し、感謝し、喜んで再スタートを切ります。それが神との間にある「平和」です。この「平和」だけは、しっかりと見続けていきたい。留(とど)めていきたい。そう願っています。
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 この、神との「平和」から私たちは、何度でも再スタートを切ります。神の平和の下にある人間として、人との間に平和を実現することに努めます。
 『信徒の友』というキリスト教雑誌の8月号の特集は、〈平和をつくり出す〉という主題でした。文章を書かれた一人である木村利人さん(早稲田大学名誉教授)は、1959年に〈幸せなら手をたたこう〉という歌の歌詞を、フィリピンで作詞しました。フィリピンでボランティア活動をしていた時に、一緒に活動していた、日本軍との戦争で家族を失ったフィリピンの友人が、“仲良くしよう!ふたたび武器を取って戦わない!”と語りかけてくれたといいます。この友人が、戦争の痛みを越えて、態度に示して親切にしてくれた思いを、日本語で作詞し、現地で歌われていた民謡にのせたということです。幸せなら態度に示そう、という歌詞には、平和を態度で示そうという願いが込められているのです。
 「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(9節)。私たちも、神との平和を信じる者として、平和をつくり出すために、平和への意識と祈りだけは忘れずに、まず自分の身近な人々との関係や家族との関係において平和を態度で示していけるように努めたいと思います。ゴスペルにもあるように“地には平和、このわたしから”です。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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