坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「塩と光のクリスチャン」

2023年8月13日 主日礼拝説教              
聖 書 マタイによる福音書5章13節~16節
説教者 山岡 創牧師

◆地の塩、世の光 13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気(しおけ)がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠(かく)れることができない。15また、ともし火をともして升(ます)の下に置く者はいない。燭台(しょくだい)の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝(かがや)かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
「塩と光のクリスチャン」
「あなたがたは地の塩である」(13節)、「あなたがたは世の光である」(14節)。
 山に登り、幸いの教えを語られたその次に、主イエスは弟子たちに、このようにお教えになりました。教会生活をしばらく続けていれば、どこかで聞いたことのある、そして印象的な、記憶に残る言葉だと思います。
けれども、改めて考えてみると、この教えの意味を、私たちはよく分かってはいないかも知れません。もちろん私たちは、塩や光を感覚的に理解はしています。でも、地上において、この世において、主イエスの弟子たるクリスチャンの、塩としての意味、光としての役割とは何か、分かるようで分からない、分かっていないかも知れないのです。「地の塩」「世の光」であるとは、どのように生きることでしょうか?
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そこでまず塩について調べてみました。生き物は、塩がなければ死んでしまう。ほぼ、どの説明にもそう書かれていました。科学的には、生命は海から誕生したと考えられていますが、生命、生き物としての人間の体内も、海の成分、海の塩分濃度に近い体の組成になっているとのことです。そして、塩分が不足すれば最悪、死んでしまうのです。つまり、生き物には塩が必要不可欠であるように、「地」には「地の塩」としての主イエスの弟子が必要不可欠である。そうでなければ、人の社会は、人と人との関係は死んだもののようになってしまうと主イエスは考えておられるのだと思います。
「塩に塩気がなくなれば‥」(13節)、そのようなクリスチャンは、社会を生かす者としては不要になってしまう、と主イエスは語ります。もちろん、神さまの大きな愛の目で見れば、この世に不必要な存在、愛されない存在なんていません。でも、マタイによる福音書が書かれた当時の教会、クリスチャンは、神さまの愛を愛として摂取(せっしゅ)せず、「塩気」を失ったクリスチャンになり、人から必要とされなくなっていたのかも知れません。
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それでは、クリスチャンの「塩気」とはいったい何でしょうか?ふと、直前の〈幸いの教え〉が目に留まりました。クリスチャンの塩気とは、心の貧しいこと、悲しむこと、柔和であること、義に飢え渇(かわ)いていること、憐(あわ)れみ深いこと、心の清いこと、平和を実現すること、義のために迫害されること、これではないかと思いました。もう少し詳(くわし)く言えば、心の中にある自己本位な欲や価値観や正当化の罪に気づき、打ち砕かれ、悔(く)い改(あらた)めて、神の愛と赦(ゆる)しによって義とされることを飢え渇くように求めている。神さまに赦され、愛されているがゆえに、心の中に愛と謙遜を抱き、柔和な、憐れみ深い態度で人に接する。この世の不正を悲しみ、不正によって苦しめられ疎外されている人の痛みを悲しみ、愛の心からそれらを解決し、平和を実現しようと努める。そして、そのような愛と平和の行動のゆえに、時にはこの世の勢力から迫害される場合もある。これこそクリスチャンの塩気、塩味ではないかと考えさせられました。
そのように考えると、「塩」とは詰まるところ“愛”なのではないでしょうか。この“私”が、神さまに愛されて心の内に豊かな神の愛を注いでいただき、そこから生まれる隣人愛によって人を愛する。愛の行動を取る。それによって、地に、社会に“愛の隠し味”となって味付けをし、愛によって人間を、社会を生かす役割を担う。それが「地の塩」と主イエスが言われる意味ではないでしょうか。「塩」ですから「光」と違い、隠れています。無理に、“ねばならない”と力むのではなく、神の塩(愛)を感謝して、自(おの)ずと、自分らしく愛を生きている。それが地を生かす「塩気」になるような気がします。
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 その上で、主イエスは真逆(まぎゃく)のような教えを語られます。「あなたがたは世の光である」、「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)
 もちろん、輝かそうとして輝かすのではありません。人々に見せようとして見せるのではありません。それでは、この後の6章で主イエスが「偽善者」と非難している人と同じになってしまいます。
 人に見せようとすることはありません。無理に輝かそうとする必要はありません。大切なことは、悔い改めて私たちの心を“受け皿”とし、そこに「塩」としての神の愛を、「光」としての神の愛を受け取ることです。その愛を心の内に温めて、喜び、感謝して生きることです。そうしていると、心の内に温めている光は自ずと漏れ出でます。心の内にあるものは、意図的にしなくても、きっと外に現れてきます。そんなクリスチャンとして私たちが生きられたら、そんな姿を見て、周りの人が“あれは信仰ね”と神さまをあがめるなら、私たちは「世の光」の役割を果たしていることになるでしょう。
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 「あなたがたは世の光である」。話は変わりますが、東京・多摩市にある恵泉女学園大学があと数年で閉校になります。河井 道(かわい みち)というクリスチャンの女性が、1929年に恵泉女学園を創設し、その中で大学は1988年に短大から移行して始まりました。
 この大学の卒業式はとても印象的です。〈学燈ゆずり〉という伝統の行事が行われるのです。私は、長女がこの大学に在学していましたので、最後に卒業式に出席し、学燈ゆずりの光景を見ました。卒業生代表が、学燈すなわち火の灯ったランタンを、在校生代表に手渡します。この光を受け継いでください、という意味です。そして式の最後に、一人ひとりの卒業生が、手に持っているローソクに学燈から灯火を受けて、〈光よ〉という校歌を歌いながら退場するのです。この伝統の式には、河井 道氏の愛唱の御言葉、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」という主イエスの教えが生きています。卒業生一人ひとりが、「世の光」としてこの世に出て行き、神の光を輝かしてほしいという願いと祈りが込められています。河井先生は、世の光として歩むために、目覚めて身支度をし、祈りによって霊と体の掃除役となる、つまり人の見ていないところで執(と)り成(な)しの祈りとそのための仕事をしようと、ある講演で語られたそうです。
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 私たちも、代々の教会が受け継いできた「世の光」としての役割を受け継いでいます。主イエスは、世の光であれ、地の塩であれ、と言ったのではありません。あなたがたは地の塩である、世の光であると断言している、ここが大事です。私たちはつたなくとも、「地の塩」「世の光」なのです。その役割を付与されて、この世に遣(つか)わされています。その信仰をもって、塩味をほんの少しでも効かせられたら、わずかでもこの世を、愛によって照らすことができたら、まさに幸(さいわ)いだと思います。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

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