坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「聖書を完成させるために」

2023年8月20日 主日礼拝説教              
聖 書 マタイによる福音書5章17節~20節
説教者 山岡 創牧師

◆律法について 17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19だから、これらの最も小さな掟(おきて)を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
「聖書を完成させるために」
 確かに、マニュアルではそうかも知れませんが‥‥でも、本当にこれでいいのでしょうか‥‥九州からわざわざ足を運ばれたのに‥‥。
 東京ディズニーランドの券売窓口で事件は起こりました。九州から小さなお孫さんを連れてやって来た女性のゲストが、アトラクションに乗らないから、入場だけでもさせてほしい、と訴えているといいます。けれども、既に入場制限の人数は超えていました。ディズニーランドにはキャストの行動基準が4つあり、その一つは“安全”。それを踏まえて女性キャストが、皆さまの安全をお守りするためにも、入場することはお控(ひかえ)いただかなければならないのです、と応対しました。けれども、ゲストは納得がいかず、子どもは“ディズニーランドなんか大っ嫌いだ!”と叫んで帰って行きました。
 その様子を見守っていたキャストの教育担当である鎌田 洋(かまた ひろし)さんは、肩を落とし、動揺している女性キャストに、晴美さんは決して間違った対応をしたわけではありませんよ。ゲストの安全を守ろうとしたからこその対応だったと僕は思います、と励ましました。けれども、その言葉に対して、女性キャストが答えたのが最初の言葉です。確かに、マニュアルではそうかも知れませんが‥‥でも、本当にこれでいいのでしょうか。
 この話は、先の鎌田 洋さんが書いた3巻シリーズ本の一つ、『ディズニー・ありがとうの神様が教えてくれたこと』(SB Creative)という中のエピソードの一つです(83頁)。女性キャストは、自分の対応に不安と迷いを感じました。マニュアル通りではあるけれど、そこに何か大切なものが欠けていると感じたからではないでしょうか。
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 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17節)。主イエスは、この後で語る律法の一つ一つの新たな理解を教える上で、まずこのように言われました。それら新しい解釈は「律法や預言者を」廃止するのではなく、完成させるための考え方であり実践だ、と。
 言うなれば、ユダヤ人にとっての“信仰のマニュアル”、信仰に基づく“生活のマニュアル”が「律法や預言者」でした。すなわち旧約聖書のことであり、そこに書かれている一つひとつの掟と神の言葉でした。ユダヤ人の中で特に、ファリサイ派という宗派の人々とその律法学者は、掟と言葉の一つひとつを厳しく守ろうとしました。それを、具体的に生活に適用するために、613個もの細かい施行細則が定められていたといいます。彼らは、そうすることが「律法や預言者」を完成することだと考えていたのです。
 そのような彼らの目から見れば、主イエスのすることは一々、律法違反に見えました。何せ主イエスは、安息日には労働をしてはならないという掟を無視して病を癒すは、断食の掟を守らず食事をするは、清めの掟を軽んじて汚れた手で食事をする弟子たちを擁護するはで、数え上げれば律法違反と思われる行動には切りがなかったからです。
 けれども、主イエスはご自分の行動を、律法や預言者を完成することだと、神の御心を完成するためのものだと自認しておられました。つまり、律法学者やファリサイ派とでは、「完成」についての考え方が全く違うのです。「完成」とは何でしょうか?
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 5章から始まった主イエスの〈山の上の説教〉を読み進んでいくと、7章12節に次のような言葉があります。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。更に22章34節以下では、律法の中で最も重要な掟を問う律法の専門家に、主イエスはこう答えています。「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい』‥『隣人を自分のように愛しなさい』‥律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」
 つまり主イエスは、律法と預言者すなわち神の御心の真髄は、神を愛すること、またそれと表裏一体で隣人を愛することであり、隣人愛をもう少し具体的に言えば、人にしてもらいたいことを、人にすることだと考えておられるのです。だから、主イエスは、一つ一つのケースにおいて、文字通り掟に従うことではなく、“何が神を愛することか?” “何が隣人を愛することか?”と問いながら、時には掟を無視し、破ってでも、“これが愛だ”と思う行動を取っておられるのです。そして、愛に基づき、愛を全うすることが、主イエスにとっては「最も小さな掟を‥破」らず、「それを守り、‥教える」ことであり、律法と預言者を「完成」することなのです。
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 ところで、東京ディズニーランドには、〈その時、“サービスの神様”があらわれた〉というエピソードがあります。2011年3月11日に東日本大震災が起こった時、ディズニーランド、ディズニーシー、合わせて7万人の来場者がいたといいます。その中で帰宅困難でパーク内に留まった人が2万人。その人たちは余震のたびに緊張と不安に包まれました。やがて日が暮れました。けれども、留まったゲストの心には、希望と安心の灯が、ランドで働くキャストによってともされたといいます。あるキャストは“これで頭を守ってください”とぬいぐるみを親子連れに渡しました。あるキャストは、段ボール箱をかき集め、“これを被(かぶ)って寒さをしのいでください”と配り歩きました。また、あるキャストは、ショップのお菓子を笑顔で配りました。平常時であれば取らない行動がたくさんありました。でも、キャストたちは、緊急時の行動基準を理解した上で、それぞれ自分の判断で工夫し、動いたということです。想像を超えたゲスト対応は感動を生みました。鎌田 洋さんは言います。ゲストとキャストの間で“心を動かす何か”が生まれる時、そこには必ずディズニーランドの“サービスの神様”が現われている、と。
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 もちろん、ディズニーランドのこの対応は非常時のことです。平常時にはまずマニュアルを破りはしないでしょう。しかし主イエスは、平常時において、普段から、律法という信仰と生活のマニュアルを破っていることになります。場合が違うことになります。
 けれども、主イエスは、日常の一人ひとりのケースを、ある意味で“非常時”のことと考えておられるのではないでしょうか。律法の掟というマニュアルで十把一絡(じっぱひとから)げには考えられないという意味で人の人生とは非常時である、だから一人ひとりに臨機応変に対応するほかない、と考えておられるのではないでしょうか。そのためには、文字通りの掟によってではなく、“愛”によって対応する以外にないのです。
 私たちも、聖書の言葉どおりではなく、その真髄(しんずい)である“愛”によって行動することが期待されています。“どうすることが隣人を愛することか?”を問いながら、一人ひとりに愛の対応を心掛けたいと思います。何が正解なのか、簡単には分かりません。でも、愛を思い、祈りながら行動する時、そこにはきっと“愛の神様”が現れます。

 

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