坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「神を礼拝する前に」

2023年8月27日 主日礼拝説教              
聖 書 マタイによる福音書5章21節~26節
説教者 山岡 創牧師

◆腹を立ててはならない 21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁(さば)きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚(おろ)か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献(ささ)げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢(ろう)に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
「神を礼拝する前に」
今現在、皆さんには、けんかをし、仲違(なかたが)いをしている相手はいますか?腹を立て、わだかまりを胸に抱(いだ)いている人はいますか?もしそのような人がいるならば、今ここで、神さまを礼拝する前に、その人と仲直りをしなさい。神さまの前に出て、その赦(ゆる)しをいただき、和解をする前に、腹を立て仲違いをしている人と、まず和解をしなさい。そのように、主イエスは私たちに言われます。この言葉の前に、私たちは立ちすくんでしまうかも知れません。あるいは無視するか、そんなこと無理だ!と言いたくなるかも知れません。この言葉を、真っすぐ、素直に受け止めることは、本当に難しいと思います。
       *
 主イエスは、律法と預言者、すなわち旧約聖書の掟(おきて)と言葉について、従来とは違う、独自の、新たな解釈を語り始めます。神を愛し、隣人を愛するという“愛”に立って、律法と預言者を完成するための解釈を教えられます。その手始めが、「殺すな」(21節)という掟についてです。
 「殺すな」という掟は、律法の中心とも言えるモーセの十戒の中に定められています。旧約聖書・出エジプト記20章に、十戒の6番目の掟として記されています。
 殺してはならない。人の命を奪(うば)ってはならない。どんな理由があるにせよ、神さまが造(つく)られ、与えられた命を、人が奪ってはならないのです。人の命は神さまの御心によって、神さまの手の内にある。神が与え、神が召(め)される。それが神さまを信じる者の、命に対する基本姿勢です。そして私たちは、戦争に駆(か)り出されるとか、よほどの恨(うら)み、憎(にく)しみ、理由がない限り、まず人を殺すようなことはいたしません。
 けれども、主イエスは、それだけで良し、殺さなければ良し、とは言わないのです。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(22節)。主イエスはそう言われます。行いとして人を殺さないことは、間違いなく非常に重要なことです。法律によって裁かれるかどうかは、その行いによって分かれます。
けれども、主イエスは、行いとして殺さなくとも、心の中で相手に腹を立てたら、怒(いか)りや憎しみから相手をののしったら、それはやがて殺意に成長するかも知れない。殺人につながるかも知れない。そのような心の中の罪の“種”、罪の“芽”は、たとえ法律によっては裁かれなくとも、心の問題として神さまから問われる、と言うのです。
 人間なんだから、怒りや憎しみぐらいあるのが当然だよ。確かにそうです。けれども、それを当然と居直り、肯定し続けたら、その感情に縛(しば)られ、飲み込まれます。律法は、そんな心の内を照らし、気づかせ、導くものと主イエスは考えておられるのでしょう。
       *
 そして、そのように自分の心を整えるために、主イエスは二つの方法を挙げられます。その一つは、「祭壇に供え物を献げようと」(23節)する時、つまり神さまを礼拝しようとする時、だれかが「自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら」(23節)「まず行って」その人と「仲直りをし」(24節)てから礼拝しなさい、と言うのです。
 この場合、腹を立て、反感を持っているのは自分ではなく、相手です。ならば、これは相手の問題だ。自分の方からすべきことではない、と思うかも知れません。確かにそうかも知れませんが、その考えは“愛”にマッチしていないのだと思います。
 人と人の仲違いや対立、争いには、どちらかが100%悪い、非があるということは、まずないのではないでしょうか。だとすれば、自分の非を認め、自分の方から「まず行って」仲直りのきっかけを作る。それが“愛”に適(かな)うと主イエスはお考えなのです。
 とは言え、思い立ったら即実行、善は急げ、とは行かない場合も少なくありません。どちらの非が大きいにしろ、謝罪をするタイミングを逸してしまっている場合や、言葉がそのまま相手に受け入れられないと思われる場合もあります。そういう時は機会を待たなければなりません。その時が来るようにと祈って待ちながら神さまを礼拝します。礼拝する前に相手と仲直り、とはいきませんが、仲直りの思いがあるならば、それは“愛”であり、仲直りへの初めの一歩として、主イエスの教えに適うのです。
 もう一つは、「途中で早く和解しなさい」(25節)ということです。自分の非を鳴らしている人と話し合いで折り合いがつかない場合、どうしても決着をつけたければ裁判ということになるでしょう。そこで法律による判決がくだされ、決着がつきます。けれども、それはたぶん仲直りの決着ではなく、腹立ちの納まらない、納得のいかない決着になるに違いありません。そしてそれは、新たな争いを生む素になり兼ねません。
 だから、自分の言い分が100%通った解決、徹底的な決着など望まず、やや中途半端であっても「途中で早く」折り合いをつけ、譲(ゆず)り合い、時には水に流すことも、仲直りには必要なのです。「最後の1クァドランスを返すまで」(26節)と徹底が過ぎるところには、愛はありません。和解と平和はありません。そういう意味で、私たちの人間関係には、「まず行って」と「途中で早く」という“愛”の行動が必要であり、大切なのです。
       *
 私たちの“愛”の土台、それは神さまであり、主イエス・キリストです。説教準備をしながら、私は〈息子を殺した犯人を許す〉という話を思い起こしていました。あるクリスチャンの母親が、一人息子を強盗に殺されました。その事件があってから、この女性は教会に行くことが辛(つら)くなりました。特に、〈主の祈り〉を祈る時、わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから‥、とは苦しくて祈れなくなった。
 ある時、この女性は教会の牧師に、その苦しみ、怒りを訴えました。私は自分の息子を殺した人をゆるすことなんてできません、と。牧師は黙って聞いていました。そしてしばらくしてボソッと、そうじゃろうなあ、辛いじゃろうなあ。‥‥たぶん神さまもとても辛かったろうな。自分のただ一人の息子のイエスさまが、みんなの手にかかって十字架につけられて殺されてしまったんじゃからなあ、独り言のように言いました。
 しかし、この言葉がこの女性の心を動かしました。今まで頭では理解していた主イエスの十字架刑、父なる神さまの心の痛み、辛さ、悲しみが、自分の心に通るようになったのです。この神の痛み、犠牲によって、自分は赦され、救われているのだ、と。
この時から、この女性は、ゆるそう、と願うようになりました。そして、犯人と手紙のやり取りをし、遂には和解をするのです。
もちろん、こんなことってまずあり得ない、奇蹟的な出来事でしょう。でも、ここまで望むべくもありませんが、主イエスの十字架という神の犠牲と痛みに裏打ちされた“愛”によって、その“愛”を信じた時に、クリスチャンは、何かしら“愛”の行動へと駆り立てられるのです。神の愛を信じて、自分の内に愛を持って、私たちも和解と平和の道を、小さなことでも、たどたどしくとも進めれば本当に幸いだと思うのです。

 

日本キリスト教団 坂戸いずみ教会

       インスタグラム