坂戸いずみ教会・礼拝説教集

<キリストの愛とともに歩もう>イエス・キリストを愛し、自分を愛し、人を愛して、平和を生み出すことを願います。

「一匹を探し回る羊飼い」

2023年9月3日 主日礼拝説教                       
聖 書  ルカによる福音書15章1~7節
説教者 山岡 創牧師

1徴税人(ちょうぜいにん)や罪人(つみびと)が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法(りっぽう)学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「一匹を探し回る羊飼い」
 突進してくる羊の群れが目の前を通り過ぎて行く‥‥私は秩父高原牧場で、ちょっとヒヤッとするような、そんな経験をしました。5,6頭で移動していた羊を、いたずら心で挟み撃ちにしました。すると、一瞬ちゅうちょした羊たちが、私の方に向かって突進して来たのです。予想外でした。そんな経験をすることは私たちにはまずありません。日本の現代社会で生活する私たちは、まず羊という動物に触(ふ)れる機会がないでしょう。
けれども、聖書の時代、その世界において羊飼いという職業は伝統的に生きており、人々は羊の性質もその放牧の実際も、身近なものとして知っていました。イエス・キリストが生まれたクリスマスの夜、天使のお告げを聞いて、最初に主イエスを探し当てたのが羊飼いだったという話はだれもが知っておられるでしょう。
 旧約聖書では、羊飼いと羊の群れの関係がしばしば、神さまとイスラエルの人々(ユダヤ人)との関係にたとえられています。今日の聖書のたとえ話も、羊飼いと羊との関係は、主イエスとユダヤの人々の関係を、もっと大きく言えば、神さまと私たち人間の関係をたとえて表していると言うことができます。神さまが、私たち一人ひとりをどのように思い、関わってくださるのか、ということです。そこから、人の生き方を、また集団や社会の在り方を考え、目指していくヒントが、あるいはガイドが示されます。
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 羊飼いは羊の世話をします。導きます。迷った羊を群れに連れ戻します。けれども、実際に見失い、どこに行ったか分からなくなってしまったような羊を、99匹をその場に残して「見つけ出すまで探し回る」(4節)ということがあるでしょうか。もしも谷底に落ちてしまった羊がいたら、99匹をその場に残してまで助けに行く、という危険を冒すでしょうか。99匹の安全を考えれば、非現実的です。
 また、「見つけたら、喜んでその羊を担(かつ)いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』」(5~6節)とまで言うでしょうか。確かに嬉しいに違いないでしょうが、いや、そこまで、パーティーを開くほどじゃないでしょう?と思うのです。つまり、この羊飼いの行動と実際の放牧とをすり合わせてみると、話がオーバーなのです。まずあり得ないことが語られているのです。ただ、もし自分自身が、人生において、この見失われた1匹の羊のような辛い状態になっているとしたら、その自分を見捨てることなく、最後まで探し続け、関わり続けてくれる“だれか”がいるとしたら、涙が出るほど嬉しく思うことは間違いないでしょう。
 つまり、主イエスはこのたとえ話において、その“だれか”というのは、天の父なる神さまだと話しておられるのです。実際には非現実的であるとしても、そのオーバーなたとえ話によって、私たち一人ひとりに関わってくださる神さまとは、そこまでしてくださる方なのだ、神の愛とはそこまでとどくものなのだと語っておられるのです。だから、このたとえの最後に、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)と言われるのです。天におられる父なる神さまが喜んでくださる、と。
 このたとえ話において、主イエスは直接的には、「徴税人や罪人」(1節)のことを、見失った1匹の羊と見なして語っています。「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(2節)といった社会の多数派、主流派から“あいつらは神さまから見捨てられている。天国には入れない”と非難され、見下されていた人々です。社会の常識や価値観で判断され、落ち込んでいる徴税人や罪人が“こんな私でも、神さまは見捨てず、愛して、価値ある者として大切にしてくださる”と気づき、喜んで自分を認めることを神さまは望んでおられる。喜ばれると主イエスは教えているのです。
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 さて、この話を現代の私たちと関連付けて考えるなら、ポイントが2つあると思います。一つは、“自分”を肯定し、認める、ということです。神さまは、百匹一からげ、一律には見られません。みんな同じ、常識や社会の基準、価値観に合わせて生きないとだめだ、とは言いません。もちろん、徒(いたずら)に基準やルールを否定していい、ということではありません。開き直って周りに迷惑をかけていい、ということでもありません。ただ、常識や社会の価値観、一般論やルール、そういったものに“これが正しいのだ。従え”と縛られて、自分を偽って合わせ、不自由な、苦しい思いをしているとしたら、合わせようとしても、どうしてもはみ出してしまうような自分をダメ人間だと否定しているとしたら、そんなふうに考えなくていい。“自分は自分でいい”ということです。
 既に天に召されましたが、私が尊敬している牧師で、藤木正三という方がおられます。この先生が、自分の歪(ゆが)み、はみ出しに長年、苦しみ続けました。けれども、やがてそのような“自分”を愛して包む神と出会います。藤木先生は、著書の中でこんなことを書いておられます。
 やがて、こういう回復不能なまでに病的に歪んだ者を、迷える一匹の羊として、そのままに肯定してくださる方こそが、キリストの父なる神であると信じられるようになった。「私は私のままでよい」と私自身を受け取る、それが神を信じるということなのだと思った時、心の中にあった無理がなくなった。客観的正しさなど恐れる必要がなくなった。というよりは、神の前には客観的正しさなるものは、実は初めから存在しなかったのである。‥‥‥(『灰色の断想』191頁~、藤木正三、ヨルダン社)
 この世の常識やルール、価値観といった“正しさ”は相対的なものです。変わるものです。絶対ではありません。そういったものに無理に、偽って自分を合わせ、苦しみ悩み、自分を否定しなくてよいのです。一匹の羊を、一人の“私”を見つけ出すまで探し続ける神を信じるということは、生き方とか、人生観という視点で捉え直せば、自分を肯定し、認めるということ、“自分は自分で良い”ということにほかなりません。
 更に、2つ目のポイントは、このたとえ話の主旨を、社会や集団、組織の中で生かしていくとしたら、少数者や弱い立場にある人を大切にする、ということです。社会や集団、組織といった“人の集まり”においては、どうしたって“99匹”という多数が尊重され、優先される傾向があります。教会でさえも、“人間”の集まりですから、維持、存続するためには、一人にばかり目を向け、常に一人の意見を取り入れるわけにはいきません。
 けれども、少数派の人や弱い立場にある人を大切にし、優先する機会が教会にはあるはずです。神の愛を現実に生かす場面があるはずです。神さまがそうであるように、私たちも“一人”の人から目をそらし、無関心になってはなりません。互いに愛し合うとは、互いに一人の相手に目を留め、心を砕(くだ)くということにほかならないと思います。そのような愛が生きている教会を祈り求めていきましょう。

 

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